YUKI

4 四分音符


 扉を開けると、幸と陽子先輩が跳ね返るように振り向いた。二人が心配そうな視線を投げかけてくるのが分かっていたので、私は時計を見る振りをしてそれらから逃れる。

「由紀ちゃん、大丈夫……?」幸の声が響いた。
「うん、だいじょぶだいじょぶ。もう治ったからさ、へーき」

 さぁてパー練再開しましょーか、とかいたずらな笑顔で言いながら、私は自分の椅子に座り、クラリネットを手に取った。少しだけお腹をさする演技も忘れない。

「別に無理しなくてもいいのよ? お腹の具合が酷いようだったら、このまま個人練にするから」
「いやいやぁ、それはダメですよ。もう本番明日なのに、パー練無しのまま挑んだら、あの部分は不完全なままになっちゃうし他のパートにまで迷惑かけちゃう。私なら本当に、平気ですから!」

 そう? と陽子先輩は訝しげな視線を向けてくる。それを何でもない笑顔で、無邪気な子供のように受ける。

「……うーん、まぁ、あと少しだけ練習しましょうか。でもユッキーの体調も大事だから、このあと個人練ね。辛かったらいつでも抜けていいからね、ユッキー」

 はぁい、と勢いよく返事し、キャップを外して吹く準備をする。お腹に力を込めると、拒絶するかのように本当に胃が縮こまったのに少し驚き困惑する。表情には出ないように、貼り付けた笑顔を保つ。
 隣に座る幸は、スコアを見つめて黙ったままだった。

「じゃあ、さっきのBパートの部分、最初から。メトロノームの音、しっかり耳に刻みつけて。遅れないように」
 陽子先輩がそう言って、輪になった私たちの真ん中に置かれたメトロノームの針を揺らす。

 かち、かち、かち、かち。

 規則的な音が部室に響き渡り、その振動が胃を更に揺さぶっているかのようで、本当に気持ち悪くなってくる。
 演技というものは不思議なもので、そういうつもりじゃないのに本当にそうなってしまうことがあるらしい。
 こんな筈じゃなかったのに。


 このBパートは、クラリネットの見せ場の部分となっている。ファースト、セカンド、サードがそれぞれバラバラな動きを見せ、複雑なハーモニーを奏でる。この間はほぼ他のパートが意図的に抑えられるため、いやがうえでもクラの音が目立ってしまう。
 この部分に関しては、外部から招待する指揮者の先生に何度も何度も指摘され、私たちの一つの大きな壁となっている。
 ファーストである幸のクラリネットが一小節分の音を奏でる。ついで二小節目からセカンドである私が同じ音でハーモニーを追いかけ、次の小節からサードの先輩がまた更にハーモニーを足していき、そのまま八小節ほど駆け抜けていく。完全にクラリネットオンステージだ。

 かち、かち、かち、かち。

 幸が吹き始める。ここだ、と思った瞬間に無理やりお腹に力をいれる。二小節目の入りはなんとか入れた。続けて、三小節目のサードの入りも完ぺきだ。指に力が入る。
 ところが、五小節目あたりの十六分音符連打のところから調子が合わなくなる。一つの音がずれ始め、するととたんに、全ての音が枠から外れていき、三人の音が完全に独り歩きを始めだした。

「あー、ダメダメ、もっかい!」

 陽子先輩が突然叫び、メトロノームを止める。幸と私の音も止まる。

「やっぱりダメねぇ……私が遅いのね、きっと……個人練が足りないわ」

 陽子先輩がため息をつき、うーん、と唸った。
 ――違う。
 私は、クラリネットをぐっと握った。
 陽子先輩は、時々外れるもののきちんと幸とテンポを合わせていた。一つ一つがちゃんと型にはまっていた。
 私、なんだ。
 私の音が、最初に遅れていくんだ。だから、二人の足を引っ張ってしまう。
 もう一回やってみましょう。陽子先輩の提案に頷く私と幸。クラリネットを再度握りなおすと、手がべたべたになっているのに気がついた。二人の視線を盗みながらそっとタオルで拭う。
 何度やっても同じだった。また、三人の息が合わない。
 部室内に響き渡る一つひとつの音が悪意を持った生き物に変化し、悪戯に私たちの調子を狂わせる。メトロノームの規則正しい呼吸音でさえ殺してしまうそれらは互いにぶつかり合っては不協和音となり、私の脳内を暴れまわった後に、霧散していく。スコアの中の音符たちが不気味な黒となって目を刺激する。クラリネットが悲鳴を上げその全身を大きく震わせる。

 ああ、気持ち悪い気持ち悪いきもちわるいキモチワルイキモチワルイキモチワルイ……! 


「――先輩っ。もう、やめませんか」

 音の乱闘を切り裂く凛とした声に、私ははっとして隣を見た。

「……やっぱり、ここは難しいですし、私も個人練あまり出来なかったから……後にしませんか」

 幸が、私を見て泣きそうな顔でそう懇願していた。先輩も私のほうをチラとみて、はっとした顔の後に申し訳なさそうに目を伏せた。

「ご、ごめん。そうよね、ここ、一番難しいしね。ごめん、ユッキー、ユキちゃん」

 かち、かち、かち、かち。

 途端に気詰まりになった空気もおかまいなしに、そいつは自己主張を続ける。
 ――何なの? 私、そんなにヒドイ顔をしていたのだろうか。そんな覚えないのに。いつも通りにやっていたつもりなのに。
 なんでそんな、そんな、申し訳なさそうにするのさ。
 心の隅にあった濃いもやもやが一気に広まり、それは一瞬にして心を覆い隠した。
 何だか堪らなくなって、悔しくなって、私は無理やり鼻で笑って、言ってやった。

「なんでよ、ここは何度も練習しなきゃダメでしょう? ほら、本番近いんだし、幸だって個人練、実はいっぱいやってるんでしょ?」
「そんな、いっぱいってわけでも……」

 困惑した表情を見せてこちらをちらちらとうかがってくる。
 やめてよ。
 なんで、どうして、いったい何でそんな顔するのさ。

「まったくもー。ウソつかないの、幸ったら。ほらほら、やりましょ、やりましょ」

 私は語気を強め、クラリネットを構えながら先輩を見て指示を待つ。そう。私は、大丈夫だから。別に、心配されるほどでもないから。態度でそう示したかった。示しているつもりだった。
 陽子先輩は尚も躊躇っているようで、うんと唸っていた。が、しばらくしてまたクラリネットを構える。幸もそれを見て、心配そうな顔をこちらに向けるが、やがて諦めて同じように構える。
 
 ※

 個人練習やパート練習は、楽しいところや得意なところなら時は早く過ぎていくものだけれど、つまらないところや手こずっているところだと、どうしても長針の動きがのろのろと感じてしまう。
私はこの時間が一番窮屈で仕方がない。
 そういえば中学の頃は、指揮者の先生が他のパートの音をチェックしているような退屈な時間に、隣にいる幸と一緒に、楽譜の隅に小さく落書きなどしてはクスクスと笑いあったりしていた。
 それでよく叱られたりする度に、私は「この子に吹き方教えてあげていただけですよ」と言い訳して、幸の楽譜にアドバイスを書きこむフリをする。
 指揮者の真ん前に陣取るクラリネットの不便なところってこういうところだよねー、なんて私は幸に言っていたような気もする。そうかもね、なんて幸も同意して笑っていた気もする。
 そんな幸の楽譜には、私が書いた落書きやどうでもいいアドバイスが埋め尽くされていた。

 けれど、今は違う。
 今の幸の楽譜は、幸の綺麗な字でビッシリだった。ここは上向きの息を出すこと、とか、テンポ早くなるから注意! とか、メトロノームの音を聞くこと、とか。色ペンまで使われていて、色鮮やかな字が端麗に躍っていた。
 私の楽譜には、あの頃と同じ、相変わらず何もない。適当に音符にぐるぐると丸印を付けたりはしているが、それが何の為につけたのかは、もう覚えてない。
 別に比較なんてするつもりもないのに、私は気づけば幸の楽譜を盗み見ていた。その度に勝手に一人で心臓が締め付けられるような思いをしている。ならば見なければいいのに。
 それでも昔の慣習がまだ根付いているためなのか、私はつい見てしまう。そして締め付けられる。
 その繰り返し。エンドレスリピート。

 私はそんな、意味もないリピートをしたくなかった。立ち切りたかった。嫌だった。もう何もかもが嫌になってきた。
 クラリネットも、楽譜も、メトロノームの音も、音楽も、自分も、陽子先輩も、

 そして、幸も。


 だからあのパート練習の後、適当な理由をつけて練習から離れ大学内をふらふらしていた私を追いかけてきた幸に対して、初めて、声を上げた。

 ――由紀ちゃんにもう辛い思いして欲しくないから。

 そんな言葉が、確か発火点だったと思う。
 とにかく頭の中がぐるぐるしていた。音符に殴り書きしたぐちゃぐちゃな丸印みたいに。
 口から流れ出る言葉はただの不協和音であって、意味が無かった。きっと、私にとっては。けれど幸にとっては、それは尖った不協和音であったんだ。不愉快にさせるだけではなく、触れた心を傷つけてしまうような。
 内容なんて覚えてない。思い出したくもない。
 ただ唯一頭にこびり付いていることは、私がひとしきり不協和音を大きく発した後に、幸の頬に大粒の涙が伝ったことだけだった。目を丸くして、瞬きもせずに流れ出るそれはまさに、ぽろぽろと紡ぎだされる四分音符のようで。
 私はそんな幸の姿を置き去りにし、一人歩きだした。その時は心が、音符の一つもなくなった線譜のようで、何もなかった。本当に、何も。何も感じられなかった。
 その線譜の左端にはト音記号だけが記されてあった。そいつだけが、一人でその場所にいた。そして、「なんでここにいるんだろう」と、人知れず呟いていた。


 目の前にノイズがかかり、やがて暗闇に覆われる。

 
inserted by FC2 system