YUKI
5 記憶
気付くと、自分の部屋の天井が見えた。
私はベットの上で、私服のまま仰向けに身を投げ出していた。
何をする気にもなれなかった。ただ心にぽっかりと空洞の穴があいてしまったかのようで、起き上がるのも億劫になる。
なんとなく視線を横に向ける。窓の外はもう黒い。カーテンもしていないから、外からはきっとこの部屋が丸見えなんだろう。それでもいいや。何か損するわけでもない。
壁時計の短針と長針は仲良く十二の文字を指していた。少しもずれることなく、ぴったりと寄り添っている双子の針。
途端に、幸の顔が思い浮かんだ。
「――もう、やめてよっ!」
何も思い出したくない。
もう、やめてよ。いいじゃない。
――私は何も悪くないっ!
真っ赤に燃えあがった怒りが沸騰し、反射的に枕を引っつかみ、時計に向かって投げつけた。ばしん、と鈍い音が響く。
ぽとり、と時計は呆気なく落ちた。床に投げ出され、まるでこの世の終わりを告げるかのような不吉な音を立てて。
それでも針は、動いていた。
秒針は周りつづけ、長針と短針の双子は少し距離を離しつつあった。
ふいに気付いた。
あれは、私と幸だ。
いつかは重なり合い、いつかは離れていく二つの針。重なり合う時間は短いけれど、それでも同じ軌道上を動き続けていれば二つは辿りつく。同じ場所に。
今の私と幸の針は――すっかり、離れてしまった。
「……うああぁ……あぁ……」
自分の身体を思いっきり抱きしめる。爪を立てていたせいで腕に痛みが走るがその痛みさえ鈍い。
強烈な喪失感と虚しさが部屋中の無音の圧力となって私に襲いかかっているようだった。毒々しい心臓音が体内を巡っていた。自分の呼吸が荒かった。
私……、何をしているんだろう。
何がしたいんだろう。
気づけば携帯を開き、新規メール作成のアドレスで幸の名前を探していた。追われているわけでもないのに焦っていて、指が汗ですべって上手く操作出来ないのがもどかしかった。
"安城 幸恵"
その名前を見つけた途端、心臓は更に跳ね上がって苦しくなる。
頬を伝った幸の大粒の四分音符が頭によぎる。
――分かっている。私は取り返しのつかないことをしてしまったんだ、って。
でも、だって、どうしようもなかったんだ。どうしようもなくて。今までずっと黙って被ってきた笑顔のベールが取れてしまったんだ。
取れてしまって、取り返しのつかないことをしてしまって、私は、はっきりと知ってしまった。
自分の本当の内面を。
幸は大切な友達だ。もっと正確に言えば、大切な双子の妹みたいな友達。
だから、私があの子を守ってあげなければならなかった。だってお姉さんだから。
クラリネットだって私が上手かった。だからちゃんと上手に教えてあげなければならなかった。いつだって幸は甘えた笑顔で私に寄り添ってくるから。
私を頼りにしてくれていたから。
そんな風に、自分に思い込ませていたのかもしれない。
本当はとっくに気づいていたんだよ。幸がいなくなってしまったら、何もないんだってことに。お姉さんみたいに威張るふりして偉い態度をとって、幸に頼られることで、何もない自分にやる気や自信を起こしていただけなんだ。
だから幸と高校で別れたとき、私は吹奏楽部に入らずにバレー部へと入った。吹奏楽を続ける意味がないと思ったから。
けれど……やっぱり、一年で辞めた。
別に友達が他にいないわけじゃない。友達は沢山いる。クラスの子、吹奏楽の子、小学校から縁のある子。
でも。幸のように、心を許せるような唯一無二の存在が、いなかった。嗚呼、そう、そうなんだ。
――いなかったんだ。
しばらくして落ち着いてから、私は机へと向かった。中学以来使われず引き出しの奥にひっそりと隠れていた便箋を取り出し、ペンを握る。なんだか初々しい気分で、私はそこに文字を書き連ねた。携帯に向き合っていた時とは違って、今度はすらすらと文字が出てきてくれる。
変なの。本当にラブレター書いてる中学生並みだな、私。他人から見たら気持ち悪い光景なんだろうな。友達への手紙に真剣になってるなんて。まぁ、それでもいいや。
私はこういう形でしか、自分の素直な思いを伝えることが出来ないから。
とにかくペンを走らせた。なんだか、溢れる言葉が音符となって演奏しているような気分だった。テンポも音階もバラバラな演奏。一番下手だけど、一番真剣だった。
そして私がペンを置いた頃には、すでに夜中の三時を回っていた。
翌日の演奏会当日は、激しい雨に襲われた。まさにバケツをひっくり返したような、という比喩がピッタリの降り方で、見渡す限り雨で真っ白に染まり、一歩踏み出しただけで靴はびしょぬれという、悲惨な状態だった。
朝はギリギリの時間に起床して慌てて準備し、雨のせいで運転しずらい自転車と格闘して、電車が数本遅れるという事態に見舞われ、やっとの思いで大学へ着くと、陽子先輩がすぐさま駆け寄ってタオルを渡してくれた。
すでに部室のある棟の前にはほとんどの部員が到着していて、荷物もほとんど一か所に纏まっており、会場へ送り届けてくれるバスを待機している状態だった。
「ごめんなさい、遅れちゃって……」
「いいのよ、ほんと、気にしないで。それより大変だったでしょ、早くこれで拭いて」
そう言う陽子先輩は、優しく微笑んだ。だけどその微笑みには、少し影が差しているようにも思えた。私を見る視線が、定まっていない。
私は申し訳なさで目を伏せた。原因は、きっと私たちなんだろう。
少しの間、気まずい沈黙が流れる。外は相変わらず激しい雨がなだれ落ちていて、地面に数センチの曖昧な川を作り出している。ざーざーと鳴り響く雨のノイズ音が、やけに耳の中で反響していた。
両手の拳にぐっと力を入れて、私は訊いてみた。
「あの……幸は…………」
「あ、ユキちゃん? ――うん、来てるよ。部室にいる」
「そう、ですか」
「うん。なんか早くから来てたよ。ずっとクラリネット吹いてる」
「……そう、ですか」
ざーざー。雨の音。沈黙を破るように降る。
「――寄ってく?」
「……え…………あの……えっと」
心臓が変なリズムを刻んで息苦しい。昨日の夜の気分なら、覚悟を持ってすぐさま部室へ行けるのだろうに、日を置くとなると、躊躇いが前に出てしまう。でも、どちらにしろ幸には会うことにはなる。
頭では理解しているけれど、心は依然と固まったままだった。小さな子供が駄々を捏ねるように、いやいやと拒否して足が前に出てこない。
ふと、先輩の手が私の頭の上に乗った。顔を上げると、先輩は先ほどの柔和な笑顔をしていた。そこに、先ほどの影はなかった。
「いいよ、ユッキー。無理しないでいいから」
――無理しないでいいから。
その言葉はすっと私の心の中に溶け込んで、穏やかなメロディーを紡ぎだしていく。
頭の上に乗せられた掌から、温かな温度が伝わってくる。
そうだ。先輩はいつも、私たちが凹んでいる時も喜んでいる時も、ずっとそばで見守ってくれていた。優しくて、真面目で、時々おっちょこちょいなとこもある先輩。
私は、もし陽子先輩が私たちと同じ年齢で同じ中学のクラリネットにいたら、と考えた。そしたらきっと、三人でいい友達グループが出来ていたのではないだろうか、と思った。気弱な幸をひっぱる私。そんな私についてくる幸。そして私たちが危ないことをしないよう優しく導いてくれる大人な陽子先輩。
そしたら、私は、幸に対してあんな感情を抱くことはなかったんじゃないか。高校で互いに別々になったとしても、幸が私より順調な道を歩んでいったとしても、陽子先輩と二人で、幸は変わったよねぇ、なんて笑いあって。それでまた三人で、カラオケやらゲーセンやらに行って、変わらない友情を確かめあって。
――そうであったら、良かったのにな。
喉にせりあがってくる熱いものを、私はぐっと堪えた。
私は先輩を見上げる。そこには、やっぱり年上の陽子先輩がいた。陽子先輩は変わらずに、優しい視線を送ってくれていた。
――いいや、違う。
その視線を見て、私はふっと気付いた。
――そんな妄想、単なる甘えにしか過ぎないではないか。
三人で一緒になったとしたら、私は恐らく陽子先輩に甘えてしまう。陽子先輩を頼りにして、そしたら、私はきっと高校で変わってしまった幸を今よりずっとずっと憎んでしまうかもしれない。
私と幸、二人だけの空間があったからこそ、私は今の私でいることが出来るんだ。
私は、陽子先輩に向かってゆっくりと頬を緩めた。今度は自然な笑顔を作ることが出来た。
「今日は優しいですね、陽子先輩」
「なんだそれ。それじゃいつも意地悪してるみたいじゃない」
コツンと額を小突かれて、てへへとおどけてみせた。そして思った。
陽子先輩は、やっぱり大切な先輩だ。
雨はやむことなく、白いベールを作り続けていた。
※
幸と会ったのは、バスが三十分遅れて到着して、乗り込む前の時だった。
幸は私と一瞬だけ視線を合わせただけで、すぐに互いに俯いた。その目が赤く腫れあがっているのがチラリと見えて、心が疼いた。恐らく私も目が若干腫れているだろうけれど、一瞬見ただけですぐにわかるぐらいに酷くはない。
ここで、私は謝るべきだったんだ。だけど何も言わなかった。本望とは反対に、私はさっさとバスの乗車口へと向かって歩き出していた。
心の中で、もう一人の私が悲鳴を上げていた。
違うでしょう? あなたのとる行動は、それじゃあないでしょう? 手足をばたつかせ必死にもがいていた。
だけど現実の私は、それを無視してしまっていた。自己嫌悪が益々増していく。ついてきているのであろう幸の気配が背中に感じられるようで、胃がきゅっと締め付けられた。
ごめん、ごめんごめんごめんごめんごめん。
心の中で謝ったって何の意味もないことなんか分かっているのに、私はそれしか出来なかった。
バスが発車してからは、私は睨むように雨の世界を眺めていた。隣で縮こまる幸の気配が伝わってくる。この座席は乗り込む前から決められていたことなので、隣にくることは分かっていたけれど、それでも心苦しいことには変わりなかった。
雨がものすごい勢いでガラスを叩いて力なく滑り落ちて行く。がくん。前のめりに座席が揺れ、思わず前の座席に頭をぶつけそうになる。さきほどからどうやら山道を走っているせいで、バスは不安定に大きく揺れている。車内では他の吹奏楽部員たちが楽しそうに騒いでいる。
私たち二人の席だけ、音が無かった。別の空間に取り残されているようだった。
―― 一言。たった一言が、どうしても出てこない。
言葉はなんども頭の中を巡るものの、音として口から発することが出来ない。あの時幸を傷つけたときは、言葉が雪崩のように出て来たっていうのに。
足元に置いた鞄がかたかたと私の足に触れる。早く、手紙渡すだけでもいいんだからさ。なんて主張しているようにも思えた。
次の瞬間、バスが大きく傾いた。幸の身体が私の方へと強く押しつけられる。他の吹奏楽部員たちの短い悲鳴が聞こえた。私も窓ガラスに左肩を打ちつけ、痛みが走って思わず顔が歪む。
バスの運転手が、道が不安定なのでしっかり座っていてくださいと注意を告げる。なんだかこれ、ヤバい状況になってきたかも、と私の後ろに座った部員は呟いた。その不安が一気に車内に感染したのか、途端に騒然となる。青い顔をしてシートベルトをしっかりと嵌めだす人もいた。
とりあえず私もシートベルトをしようかと手を動かそうとするものの、身体を私にあずけたまま動かない幸がそれを邪魔した。とりあえず軽く揺すって離れるよう促してみるものの、それでも幸は動かなかった。
どくり、と心臓が脈打った。気分でも悪くて動けなくなったのか。そういえば車酔いしやすいんじゃなかったっけ?
私は一気に不安の圧力に押しつぶされそうになり、恐る恐る幸に声をかけた。
「――ねぇ、幸、どうし……」
「―――ごめんね」
小さな声だった。本当に、蚊の飛ぶ音よりも小さな声だった。
けれど確かに私には聞こえた。顔を私の腕に押し当てながらも、確かにそう、言っていた。
途端に、周りの音が、景色が、そして私の中から全ての感情が消えた。
不安も、戸惑いも、苛立ちも、焦りも、全部全部。
それはほんの一瞬で、恐らく秒針が一歩も動くことすら許されない刹那の出来事だった。
そして空っぽで白い砂地となった心に、どっと激しい波が打ち付けた。
後悔や罪悪感、とは違う。とにかく形容し難い激しい波が心の砂地に叩きつけられ、それは脈となって全身にあっという間に巡っていく。体中が悲鳴を上げた。
そして何故だか、ものすごく情けなくなって、切なくなって、泣きたくなった。
※
――そこから先のことは、もうよく覚えていない。
私はもしかしたら、幸の身体を無理やり引っぺがし、あんたが先に謝んないでよ、私の台詞なのよ、馬鹿、なんて叫んでいたかもしれないし、逆に幸の小さい身体を抱きしめて、ごめん、と泣きじゃくって謝っていたのかもしれない。それとも……それらを同時にやっていたのかもしれない。
そして次の記憶を探ろうとしたときには、そこにはどす黒い土の色しか思い出せない。
窓の向こう側に、雪崩のように土が迫ってきていたのが、あの時見えていたのだろうか。その色だけが私の記憶にこびりついている。
きっと、私たちが乗っていたバスはあの土に呑まれ、そして――――
ここまでが、記憶。
私が生きていた時の、記憶。
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