YUKI

3 幸と、蛇と、天国。


「近くにある楽器屋さんに寄っていく?」

 私のすぐ隣には、ずっと付いてきたらしい幸が立っていた。その目は真っすぐ私を捕えていた。

「いい。お金、今持ってないし」
「……そっか」

 周りを見渡す。サラリーマンや学生、老人など、さまざまな人々が背後にある大きな建物内に出たり入ったりして、そこから時々「電車が参ります」と呼びかけるアナウンスが聞こえてくる。
 もう駅前まで着ていたのか。厚い雲がオレンジ色の太陽をしっとりと包み込んでいるおかげで少し薄暗い駅前通りは、行き交う人々に埋め尽くされており、電光がその人たちの道を指し示すように煌々と輝いている。
 電光板の時計を見ると、午後五時近くを指していた。どうやら、時間の流れを忘れて電車に乗っていたぐらい、私は物思いに耽っていたらしい。
 隣で何か言いたそうな幸を置いて、私は先に一歩を踏み出した。私たちの帰りの方向は途中まで同じで、 一本道だ。幸が後から、遠慮がちな足取りで付いてくる気配が感じられた。
 駅前通りはこの時間帯が一番人の群れで賑わう。近くの大きなスーパーめがけて、主婦たちが早足で私たちの横を通り過ぎていく。その少し遅れた足取りでくたびれたサラリーマンたちが駅と反対方向に歩いて家路を辿っていき、時折、自転車に乗った中学生や高校生たちが風を切って追い越していく。

「あ、高山中の制服だ」

 ふいに後ろから幸の声がした。視線を上げると、確かに高山中学校の制服を着た子が、自転車に二人乗りして楽しそうに身体を揺らしていた。

「あっぶないなぁ。こんな人通り多いとこでわざわざ二人乗りしなくてもいいのに」

 その自転車はフラフラと蛇行し、近くにいる人々が煩わしそうに視線を向ける。そんなのもお構いなしなのか、自転車は止まらない。
 母校の中学生たちがそのような危なっかしい行為をしているのを見ると、なんだか余計に腹立だしくなり、同時にお腹の奥がむず痒くなるほど恥ずかしくなった。

「でも、懐かしいねぇ」

 いつの間にか、幸が私の隣に並んでいた。その顔は、後輩を見て苛立っている風ではなく、優しく見守る母親のような柔和な笑顔であった。

「あ、そういえば覚えてる? 中一で、部活登録の時の楽器決めの時」

 幸は私の気分もお構いなしに話しかけてくる。無視するわけにもいかず、仕方なく答える。

「初めて幸と会った時?」
「そう。私、先輩たちから"双子のユキちゃん"って言われた時は、なんだか嬉しかったなぁ」
 記憶のテープを中学の頃まで巻き戻す。
 中学一年の、四月後半。
 あの頃、一年生は部活に所属しなければならないという決まりがあった。なんでこんな決まりあるわけ、すっげーめんどくさい、なんてぶつぶつ文句を言っていた記憶がある。
 隣の幸から、おっとりとした懐かしいオーラが染み出している。それが私にまで感染したみたいで、私までまた当時の思い出に耽ってしまった。

「"双子のユキちゃん"ねぇ……。私は、どっちかと言えば恥ずかしかった」
「でも、顔はすっごくにやけてたよ。私、覚えてる」くすくすと幸が笑った。
「うそぉ。幸の記憶違いじゃない? ていうか、そもそも"由紀美"と"幸恵"って、漢字全然違うじゃん。三文字と、二文字だし」
「でも、先頭の"ゆき"っていう読みは一緒だよ?」
「ま、そりゃ、そうだけどね」

 先輩や友人たちからは、「双子みたい」といつもからかわれていたあの頃。
 当時、肩まであった髪の長さが一緒で背も同じ身長。いつの間にか"クラリネットの双子のユキちゃん"が部内で定着し、そして周りから自然と私がお姉さん、幸が妹のように見られていた。
 一人っ子で妹や姉というのが居なかった私からすればとてもこそばゆいことで、その抵抗心からか、私はいつの間にか「さち」と呼んでいる。その事実を知った後に、素直じゃないなぁ、なんて陽子先輩から言われたことがある。

「私、嬉しいんだ」
「何が」
「由紀ちゃんと、今も一緒に歩いて帰れることが」

 幸の足取りが軽くなったのか、一回だけスキップした。本当に楽しそうだ。そんな雰囲気が全身から伝わってきて、意味もなくうつむいてしまう。この子は本当に、自分の感情をすぐに表に出して、全身で表現出来てしまう。私とは、本当に、対称的で――――
 心の奥が疼いた。お腹の奥がカーっと熱くなって、胃が空腹を訴えるように縮み、私はつい叫びだしそうになるのを堪えた。唇を思いっきり噛んで開かないようにする。
 最近、こんなことばっかりだ。胸の奥にひそむ小さな私が、ため息をついた。
 そんな私の思いも知らず、幸は楽しそうに、なんの変哲もない周りの景色を眺めていた。


 こんな思い、中学の頃は感じたことがなかった。幸が隣にいても、ただ「しっかりしなきゃ」と幸のクラリネットの指の動きを注意してあげたり、お手本を示してあげたり、時々は冗談を飛ばしたりして、二人のいる空間を純粋に楽しんだ。
 幸が笑えば、私も笑った。幸が泣けば、私ももらい泣きしそうになって堪えた。本当に、本当の双子みたいに。

 ――でも、なんとなく分かっていた。幸と一緒にいる時間が当たり前になってきた頃から、心の奥で、何か変な、怒りとも悲しみとも憎しみともつかない黒い感情がぐるぐる渦巻いているのを。

 それはまるで毒を持った、ぬるぬるとした蛇のようで、心の奥底を小さくずるずると這いずり回っていた。あの頃はまだ単純だったから、それを見つけてもすぐに忘れて無視出来た。それに、蛇はまだ無垢で牙もなかった。
 『幸が、羨ましい』。蛇は小声でそう訴えていた。
 ずっと、そのまま大人しくしてくれればよかったのに。幸が、私には届かなかった第一志望の高校への切符を手に入れ、互いに違う道をたどるようになった時から、徐々に蛇が脱皮していくのを私は感じ取っていた。

 そして、今。
 同じ大学に通うようになって、幸の今までにない表情を見つけてしまってから、ついに蛇は私の心に噛みつき毒を全身に流した。
 毒はどんどん私の身体を、細胞を、浸していく。
 ずっと見ないようにしてきたのに。
 どうして、何故。


「由紀ちゃん、大丈夫?」

 その声で一気に視界に光が戻り、いつもの駅前通りの風景が広がった。隣で並ぶ幸が、心配そうに顔を寄せてくる。

「……やっぱり、クラリネットのことで?」

 その視線がとても痛々しくて、「あ、いや、それは全然関係ないって。ちょっとね、別のこと考え込んじゃってて」早口でまくしたて、あはは、と乾いた笑い声が出た。
 もう、心配しなくていいよ、と言って幸の背中を叩いた。

「クラリネットのことなら大丈夫。すぐ調子戻るからさ。私、調子取り戻すのが遅いタイプなんだよねー」

 道端に落ちていた拳大の石に近づき、人がいない方向へと軽く蹴った。力は緩くしたつもりだったのに、思ったより遠くへ石が転がっていってしまった。近くを通りかかった高校生に睨まれる。あぁ、これじゃさっきの二人乗り自転車と同じだな、と思いつつもさりげなくその視線を避ける。
 すると、横から幸が駆けだし、前方にある私が蹴った石へ近づいていく。私はただ呆然とその姿を眺める。
 幸の華奢な指がその石を掴み、大切そうに包み込んだ。くるりと私の方向へ振り返り、石を差し出しながら笑った。
 一瞬、訳が分からなかった。何がしたいの、あの子。ただ立ち尽くすことしか出来なかった。
 けれど幸は、その石を持って、まるでお祭りに来た小さな子供のように無邪気に笑っているだけだった。

「見て由紀ちゃん! 面白い石っ!」
「……はぁ!?」

 人間の天然記念物とはこいつのことなのか、と思った。その石は普通の楕円形の形で、特に目立って面白いところなんて一切ない。呆れて開いた口が塞がらない私をよそに、幸はそれでもにこにこと笑う。
 途端に、全身の力という力が全て霧散して、ふっと軽くなって、全てのことがどうでもよく思えてきた。
 まぁ、いいや。もう、どうだっていいじゃん。
 お腹の収縮が緩んで、全身の血の流れが穏やかになって、顔の筋肉が弛んで、自然と笑ってしまった。

「ちょっとぉ、幸! 汚いでしょうがっ!」
「えー? そんなことないよ! この石、つるつるしてて気持ちいいよ」

 由紀ちゃんも触ってみる? なんて言いながらこちらに向かって走ってきた。たった数メートルの距離だというのに、幸の肩は大きく上下していて、私は「そんなのいらんっ」と石を奪い取り今度は大きく蹴り飛ばした。あぁ、ひどいよぉ、なんて幸が本気で悲しげな様子だったので、私はもう全身で笑い声を上げていた。周りが不思議な物体を見るような奇妙な視線をよこしてきたが、気にしないことにした。
 
「あ」

 ふと、幸の視線が上空の一点に固定される。「どした?」つられて、私もその方向へ視線を向ける。
 その光景に、私も口を半開きにさせて呆然と立ち尽くした。「あ」と、多分私も漏らしていたと思う。
 空のキャンパス一面を覆う灰色の厚い雲にぽっかりと穴があいた部分がある。そこから薄い透明なベールを纏った太陽光が、地表に向かってオーロラのごとく、幾重もの筋を真っすぐと投げかけていた。その穴の淵は淡いオレンジ色に優しく染まっていて、周辺の雲との陰影のコントラストをハッキリと際立たせている。
 そこだけが、まるで空間が違うようだ。
 神秘的で、まるで結婚式の時に鳴るような鐘の音が響いてきそうだった。
 けれど同時に何か大きな畏怖も感じた。このまま見つめていると、あそこへ吸い込まれてしまいそうだった。

 ――すごい。
 幸がぽつりと言った。

「なんか、天国への入り口みたいだね」

 天国への入り口。
 それ以外の例え以外に何の言葉が当てはまるのか。それくらいしっくりしている響きに、私は頷いた。
 天国があるかどうかなんて知らない。でも、今この瞬間、その道への断片を垣間見した気がした。すると途端に、足が地についている感覚が失われそうになった。背中から羽がぴょんっと出てきて、まるで夢と現実の狭間にいるみたいなふわふわした気分のうちにどこかへ連れていかれそうな感じがして、咄嗟に「目を離さなければ」と思ったものの、それが許されなかった。
 私は、幸の手を握った。幸の手は生温かくて、何故か手ではなくふにゃふにゃのこんにゃくを握っているような感覚になった。何の反応も返って来ず、そのこんにゃくに意思はなかった。

 私はどうしようもなくて、目を閉じた。
 そのぬくもりだけが、意識の片隅に粘りついた。
 
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