キミとぼくの竜。

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第三章の3



 二人は病院の待合室にあるベンチへと並んで腰かけた。それぞれの手には、紙コップのホットコーヒー。

「まぁ、手術っていっても、大したことないんだよ。中学の時に受けた手術の補強って感じだし、そう長くもかからないだろうし……て医者は言うんだけど」

 本当にそうだと良いんだけどね。告げる多摩美の声は、くぐもっていた。
 壮平はそっと隣へ視線を遣る。彼女は手にした紙コップをじっと見つめていた。中身のコーヒーからはほのかに湯気が立ち上っていて、表面には彼女の顔がぐにゃりと映しだされている。そこに一瞬だけ、きゅっと結ばれた彼女の口元が見えた。
 ふいにその口が弧を描き、あはは、と力ない笑い声が聞こえてきた。

「でも、まいったなぁ。山田先輩には、このこと、ばれたくないなぁって思ってたんだけど。
 あ。別に、嫌っているからとか、そういう意味ではなくて。ただ……そう。なんとなく、知られたくなかった」

 包みこむように紙コップを持つ壮平の両手に、わずかだが力がこもる。
 俯きがちになる壮平と、コーヒーをあおるように飲む多摩美の前を、小さな男の子が一人、わいわいと駆けていった。
 中身を一気に飲み干した紙コップをことりと傍に置いてから、多摩美は言った。

「私にとってはさ、初めてだったんだ。竜の話を、一緒に楽しんで聞いてくれる人。
 だってね、私の友達とか、皆興味なさそうな顔するし、時にはうざったい目で見られたりしてさ。ひっどいよねぇ。
 だからさ、すっごく嬉しかったし、楽しかったんだ。先輩といるの。それに、自分のことも忘れられたし。こういう表現も可笑しいと思うけど、小さな頃に憧れた、竜の背中に乗っているような気分だったんだよ?
 でも、手術のことを知られちゃったら、それが壊れてしまいそうで恐かったんだ」

 多摩美の声は徐々に掠れていった。
 すぐ前方から、子供の騒がしい声がする。そちらへ視線をやれば、待合室の角に設置されたテレビの前に、さきほど壮平たちの前を通っていった男の子がきゃっきゃと跳ねていた。どうやら、テレビに映るアニメに夢中になっているようだ。
 この子の母親はどこなんだろう、と思わず周囲へ視線をめぐらせた。早くこの子を静かにさせてくれよ。

 隣から小さく息が漏れる音がした。ハッとして隣を見た。
 多摩美が大粒の涙を一つ流しながら、苦笑していた。

「でも本当は、手術も恐いんだ……。前回の補強だっていうけど、失敗する可能性もないわけじゃないんだし。
 ホント、嫌になっちゃうよね。たまんないよね」

 周囲の雑音が、一気に大きくなる。壮平の胸の内のざわつきも更に強くなる。耐えられなくなって、視線を逸らす。テレビの前に、男の子の姿はなかった。
 何かが窓を連続で叩いているかのような小さな音が、誰もいなくなった待合室に座りこむ壮平たちを包み込む。やがてそれは大きくなり、ざぁざぁと激しさを増していく。雨だった。
 多摩美は、顔を両手で覆いながら、前屈みになった。その華奢な肩が、苦しそうにかすかに上下へと動く。

 壮平は、彼女へと視線をくぎ付けにさせながら、周囲の不穏な音に混じって、自分の鼓動も一層激しくなるのを感じていた。

 彼女に何か声を掛けてあげたい。でもどんな言葉がいいのか分からない。何も出来ない自分。ただ隣でぼうっとしているだけの自分。
 歯痒さが、自分の至らなさが、さらに胸をきりきりと締め付ける。

 ふいに、テレビからキャスターの声が聞こえてきた。
 ――この激しい雨は、土曜日まで続く見込みでしょう。
 待合室にある小さな窓を見た。いくつもの雨の筋がガラスを伝っていく。瞬間、眩い光線が壮平の目を貫いた。数秒後には、ごろごろと小さく空気が振動する音。
 雨。雷。
 脳裏に、あるシルエットがふいに浮かんできて、壮平はハッとした。

「……竜だ」
「――え?」

 その言葉で顔を上げ、赤く純血した目をパチクリとさせて多摩美は壮平を見た。
 壮平は、興奮のままに口を開いていた。

「この雨だよ。西原さん。手術はいつだっけ」
「こ、今週末、だけど」
「ならさ。これ、もしかして竜が来た証拠だったりしない?」

 窓の向こうを指差す。黒色に染まった空。ふたたび雷鳴が迸る。それに負けないように、壮平は声を張った。

「ほら。竜って、水の神でもあるし雷の神でもあるんだろ? この雨、土曜日まで続くらしいし。西原さんの手術の日までじゃないか。だから――」
「……あ」多摩美は小さく、そう声を漏らした。

 ――って! なに言ってんだ俺はよっ!
 自分の幼稚な言葉に気付いたのは、目の前の彼女が、今日出会った時と同じようにきょとんと固まる姿を見てからだった。
 恥ずかしい。いや、めっちゃハズいぞ、これ。

 壮平はさりげなく彼女から顔を逸らし、火照る頬を隠した。相変わらず雨の音は激しい。次の瞬間、窓の外から光が放たれる。なんだか空の向こうの竜に笑われているような気分だ。
 
 ふいに、背中に重みを感じた。同時に生温かさも伝わってきて、思わず壮平の背筋が伸びた。
 背中から、啜り泣くような音が聞こえてくる。どきん、と今度は胸が反応する。
 もしかして泣いてるのかな、と壮平はたじろいだ。しかも、なんだか震えてないか? まさかのおお泣き?
 
「ちょ……。に、西原さん……あの、その、」

 振り返ることも出来ず、戸惑いがちに声を発したとたん、大きな笑い声が耳に響いてきた。今度は身体全体で飛び上がった。
 顔だけそろそろと振り返れば、多摩美は壮平の背中に額を押し当てて、くつくつと笑っていた。

「竜。そっかぁ。うん。そう、だね」

 笑いつつ、多摩美は言った。瞳から大粒の涙が、次から次へと流れていく。
 彼女の表情は、一瞬だが眩い雷に照らされるせいか、とても華やかで輝いていた。
 
「先輩の言うとおり、きっと竜が、見守っていてくれているよねっ」

 多摩美は思い切り壮平へと抱きつく。突然強く抱きしめられた壮平は、「ぐおっ」と間抜けた声を出した。

 それから二つ分の笑い声が、外から注ぐ雨音と、力強い雷鳴と交じりあっていった。

 
 ※

 土曜日に行われた多摩美の手術は、無事に終わった。
 多摩美が退院するまでの間、何故だか壮平はしつこくメールで呼び出され、彼女お得意の竜話に付き合わされる時間が多くなった。
 今やすっかり、壮平も竜に詳しくなった。知れば知るほど、その神秘性や威厳に惹かれていく。
 そしてなによりも、感謝していた。
 自分と多摩美とを繋げてくれた、尊い存在に。

 時には「あれ買ってきて」とのわがままにも付き合わされるのだが、それでも壮平は、多摩美との時間を楽しんだ。 
 そして雨の降った日には、必ず多摩美は外を見ながら、こう言うのだ。

「あ、今日も来てくれたんだね、竜!」


 <了>


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