それから、多摩美と一目も会うこともなく、一週間が過ぎていった。
連絡と言える連絡も、博物館へ行ったあの日の夜に、メールで少しだけやりとりしたぐらいだった。色々と話を聞いてくれて本当にありがとね、また機会があったらよろしく、といった内容のメールが届き、自分も楽しかったよ、と返信して以降、途絶えたままだ。
煮え切らない思いが壮平の心を支配する。携帯を見るたびにそれがますます強くなって、重いため息をついてしまう。そしてハッと気付く。
何を考えているんだろうか、俺は。彼女とは、ただのレポート代理の仲だ。それ以上でもないっていうのに。それに、そのお礼だって終わっているわけだし。これ以上彼女と繋がる理由は、なかったのだった。
それでも、多摩美のことを考えては、行き場のないモヤモヤとした気持ちに悩まされた。
もちろんこちらからメールを何度か送っている(「調子はどうですか」というそっけないものではあったけれど)。けれどもやはり、返信は来ないままだった。
くそっ。なんで俺、こんなに頭を抱えているんだよっ!
その答えに、全くもって気付いていないわけではなかったのだが。
※
夢の夏休みは、まだ少しだけ遠かった。
講義室の窓から流れ込んでくる蝉の合唱が、耳を唸らせる。むっと湿った暑苦しさの中で、ただ座っているだけだというのに、汗が噴き止まない。特に、椅子と密着しているお尻の熱はひどいものだ。壮平は時折椅子をずらしつつ、暑さに堪えた。
教卓の前に立っている女性の臨時講師も、それは同じなのだろう。さきほどから、手に持つハンカチで額をせっせと拭っている。けれど目だけはぎらぎらと燃やし、ずっと『源氏物語』の魅力を熱く語っていた。こちらにとっては、ますます暑くてかなわない。
壮平は机の上の配られたプリントに適当な落書きをしながら、早く終わってくれることを胸の内で祈った。
またもや、重要なことを忘れていた。自分が登録してあったある一つの通年講義が、後期分を夏休みの補講に回していたことを。気付いたきっかけは、大学からのお知らせメールだ。
あぁ……。授業登録の際、「一週間で終わるし、余裕だろう」と軽く考えていた自分を呪いたい気分だ。
けれどこれを機会にと、実際に、一年次の国文学科生たちが集まっているだろう授業へと、顔を覗かせた。けれども、目当ての姿はなかった。そこで、彼女は普段からあまり講義へ顔を出していないことに気付く。
無駄足に終わり、途方に暮れるしかなかった。
「ホント、最近はマジで嫌なことばっかじゃねぇかよ……」
鬱屈した心情が飽和量を越えて、ついに声となって漏れた時だった。
「なになに。なんかあったの」
小さく抑えられた、けれど喜々とした声がすぐ横から聞こえてきた。
顔を見なくても誰だか分かっていたので、壮平は机へ塞ぎこみながら、それに答える。
「一週間ほど前に、英世三人ぱくられたのが、今になってすごく惜しい気分になってるんだよ」
「えー。なにそれ」
斎藤絵理の声が、少しだけ不機嫌になった。「いーじゃんか、別に。代わりに良い情報教えてあげたんだからさ。おかげで単位落とさずに済んだんでしょ」
「そりゃそうなんだろうけどさ」
「……あ。もしかして、多摩美ちゃんと何かあった?」
するどいなぁ、この女子は。壮平は、机に伏せた顔を思いっきりしかめるしかなかった。
「そっちは全然関係ないんだけど」
「そっかそっかぁ。あぁ、もしかしてあたし、壮平君の恋のキューピットになってあげたって感じぃ?」
「はぁ!?」思わずがばりと顔を上げた。「なんでそうなるんだしっ!」
「うお。マジかぁ」
にひひぃ、と誇らしげに笑う絵里。ふん、と壮平はそっけなく鼻を鳴らし、赤くなる顔を逸らすしかなかった。あぁもう、好きなようにしろよチキショー!
ますます気が滅入って、机にめりこむほどに体を伏せる壮平であったが、次に絵里から発せられた台詞にびくりと反り返った。
「でも、多摩美ちゃんも大変だよねぇ。突然になって決定したんでしょ? 手術」
「――手術!」
いつかと同じように、講義室内の注目の的となる壮平。絵里以外の全員が目を点にさせている。前方では、源氏の夢を突如として妨害させられて、不機嫌に顔を歪ませている講師の顔があった。
けれど壮平はそれらを気にすることもなく、絵里へと問いかけた。
「それ、どういうこと!」
「……え? し、知らなかったの?」
今にも後ろに倒れそうなほどに体を遠ざけつつ、絵里はゆっくりと口を開いた。
「多摩美ちゃん、小さな頃から心臓が弱いらしくて。その手術らしいけど……。
まさか壮平君、彼女が中学の時に大きな手術をやったことも知らなかったわけ?」
「なんだよそれ! 全くもって知らねぇし!」
「ちょっと、そんなに近寄んないでよ」目と鼻の先まで迫ってきた壮平を押しのけつつ、絵里は言った。「なんかさ、その大きな手術のおかげで、最近までは元気に過ごせたらしいんだけど。近頃、心臓にまた問題が見つかったっぽくて。緊急手術が決まったんだよ。で、今はこの近くの市民病院で入院中なんだとかで……」
バカみたいに口をぽかんと開けながら、壮平は固まった。
心臓……? 入院……? 緊急手術……?
全ての単語が上手く咀嚼できず、ただぐるぐると頭の中を巡っていく。心臓。入院。緊急手術。
やがてそれらが、一つの答えを導き出した。
こらそこの二人何を話しているのですか、と講師の先生が声を荒げたのと、壮平が立ちあがって講義室を飛び出したのは、ほぼ同時だった。
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