YUKI

1 複雑な思い


 誰かに呼ばれたような気がして目を開けると、そこに紙コップを持った幸(さち)が立っていた。

「はい、これ。OBの人から、差し入れのジュースだって」

 差し出されたコップの中で、オレンジ色の液体がゆらゆらと不安定に揺れた。幸の顔がぐにゃぐにゃになって映っている。

「ん。そこ、置いといて」

 私はなるべく明るいトーンで言った――つもりだった。実際はぶっきらぼうに聞こえたのかもしれない。
 液体に映る幸の表情が一瞬固まる。だがすぐに笑顔を取り戻して「こぼさないでね」と一言言い添え、テーブルの上に紙コップが置かれる音が聞こえた。

「それにしても、由紀ちゃんはそういうポーズ取るの、好きだねぇ」

 スチール製のテーブルに頭を横たえて椅子にだらりと座っている私を一望してから、幸が遠慮がちにくすりと笑った。

「まぁね。こうやると気持ちいいんだよ。どう、幸もやってみる?」
「ううん。見てるほうが楽しい」

 なんだそれ、私がわざと頬を膨らませてみせると、今度は何かから解放されたようなほぐれた笑顔を見せた。
 単純なんだよな、こいつ。そこだけは全然変わっていない。私も頬を緩めると、心が次第に落ち着いてきた。それと同時に、数分前にやってしまった自分の行動を思い出し、胸が締め付けられる。

「……ごめん。先にさっさと行っちゃって」
「そんな。全然気にしてないよ」

 私の斜め前、クラリネットを仕舞おうと分解していた幸の手が止まった。視線を落としておろおろと彷徨わせながらも、続ける。

「由紀ちゃんのリードミスだって、全然気にしてないから。きっと……まだ本調子じゃないんだよ」

 私は深いため息をつきながら、ようやく頭を持ち上げた。テーブルの傍らで、キャップすらされておらずポンと放置されている自分のクラリネットを見つめる。キーが錆びついてところどころ傷のついた、私の長年の相棒。
 初めて手に入れたのは中学一年、だから六年前になる。あの頃の相棒は、当然のことながらキーは神々しいまでの銀色の光を発し、クラリネットは息吹を感じさせるほどくっきりと色彩を持っていて、少しでも力を緩めれば滑りおちてしまいそうなほどに艶々な光沢で覆われていた。
 最初に手にした時に、私はあまりの感動に酔いしれ、そしてひそかに心に誓っていた。一生こいつを使い続けていこう、と。幸と一緒に。
 当時の気持ちを思い出すたびに私は口の中が苦くなる。まったく、そんなの都合が良すぎ。笑い飛ばしてそのまま当時の記憶ごとどこかに放り投げてしまいたい。
 奥歯をそっと噛み締め、私は意地悪っぽく、視線を彷徨わせ続ける幸にあの頃みたいにニッカリと笑いかけた。

「まぁ、いつまでも調子戻せないようじゃ皆に迷惑かけちゃうしね。本番までには戻せるよう、頑張んなきゃね」
「そうそう、もう本番は明後日なんだから」

 部室のドアが開かれるのと同時に、明るい声が流れてきた。顔を上げると、そこには陽子先輩が優しい笑顔で立っていた。

「セカンドで支えてくれるユッキーがいないと、ファーストとサードがやりにくいでしょう?」
「ちょっと、なぁに言っちゃってるんですかぁ。サードの陽子先輩が仕切ってくれないと、幸のファーストが映えてこないでしょ」
「今回の私のサードは、あくまでもサポート。やっぱりここは、二人の見事なハーモニーをきかせないとね」

 一個上の同じクラリネット担当である先輩と私の陽気な声が、コンクリートで囲まれた六畳間の部室に響き渡る。
 通風性が非常に悪いサークル部屋だから、夏になると地獄のサウナ状態になる。
 暖房機能だけは付いているので冬はまだマシなのだけれど、いかんせん空気が悪くなる。夏に終わりを告げて気温が心地よくなってくる今のような時期が、一番居心地が良い。
 部室には私たちクラリネットパート三人のみ。他のパートはまだ練習なのだろうか。誰も来る気配がない。

「合奏はさっき終わって、今は各自パー練中。さて、どうする? 私たちは」

 部屋の一角に寄せ集められている荷物置き場のほうへ向かいながら、先輩は尋ねてきた。でもその声はやる気に満ちていることはすぐに感じ取れた。
 吹奏楽部員の中で一番練習熱心で完ぺき主義者の先輩の気質は有名で、まだ一カ月の関係だが、感心すると同時に少し閉口している。

「私は、まだ大丈夫ですけれど……」

 と、幸。チラリと私を見る目が、先ほどよぎった心配な色に染まっていた。
 反射的にそっぽを向いて、半場投げやりで私も答えた。

「別に良いですよ、私も。もう時間ないですしね。私のこんな状態じゃあ、やっぱみんなに迷惑かけるばっかりだし。リードミスだって何回か練習してればそのうち……」

 リード、という言葉ではっと思い立って、乱暴にクラリネットを掴みキャップを取ってリード部分を見る。

「あぁ、しまった! さっきの演奏中に欠けたんだった! 
 うわー……これ最後のリードだったのにぃ……」

 手持ちの良いリードはこれで尽きてしまった。あーあ。思わず肩を落とす。
 買わなきゃなぁ、とずっと思っていたのだが、まだ買っていなかった。
 ――ううん、違う。正確に表現するとすれば、買う気になれなかった。
 お店に何度も通ってはリードに手を伸ばそうとしたけれど、どうしてもレジまで運ぶことができない。
 お金が無いんじゃない。手にした途端に、まるでそのリードの箱にやる気が吸い込まれてしまうかのように気力が無くなってしまう。そして、また今度でいいや、という気持ちが生まれ、そのままお店を後にしてしまう。
 要に、私自身の気持ちの問題だった。

「あら、そう? なら、私の良い状態のリード、貸してあげましょうか?」

 リードの箱を探って新しいのを出そうとする先輩を、私は「そんな、悪いですよ!」と両手を思いっきり横に振った。

「いいのよ。まだ十箱ぐらいあるしね。本番まで時間無いんだから、少しでも良いリードで調整していかないと」

 平然と告げる先輩。それにしても、十箱まで買い溜めておくとは。さすがは先輩だ。手にはすでにチューニング機を装備していた。
 チラリと自分のクラリネットを見る。相変わらずポツンと冷たくなったまま放置されている。またこいつを吹くのか。
 ため息が思わず出そうだったが、すでにやる気に燃えている先輩に悪い気がして飲み下す。

 ――こうなっちゃあ仕方がないか。

 諦めて、寝転がるそいつに手を伸ばしリードを外そうとした時。

「あの――先輩。今日はもう終わりませんか?」

 幸の声が響いた。私は弾かれたようにそちらを見た。はっと息を飲んだ。
 立ち上がり真っすぐ先輩を見据える幸の目に、さきほどまで視線を彷徨わせていた戸惑いなんてものは微塵もなかった。ただそこには何か自信にあふれた光が宿っていて、私は馬鹿みたいにその光だけを直視した。

「由紀ちゃん、ブランクがあるから上手く出来ないんだと思うんです。そういう時は、無理して練習するよりもゆっくり吹き慣れていくほうが良いですよ。口の形も悪くなっちゃう危険もありますし。
 やっぱり自然と吹き慣れていくほうが一番ですよ」

 凛とした声に先輩が、うーん、と少し悩む。
 後に、そうねと一つコクリと頷いた。

「ゆっくりって言っても、もう時間無いんだけれど……ま、仕方ないか。クラリネットについては"双子のユキちゃん"のほうが経験者だしね。私がどうこう言っても仕方ないし!
 いいわ、個人練にしましょうか。ユッキー、無理しないようにね」

 ありがとうございます、と幸が言って私を見た。雲間から差し込む柔らかい光のような笑顔がそこにあった。私はただ間抜けたように突っ立っているだけだった。
 それは、中学時代――私と時間を共有していた頃には見ることのなかった、救世主のような微笑み。記憶の隅にある、あの頃の幸とはまるで重ならない。ただ、不安だけを前に押し出し目を伏せがちだった幸。

 ――人は三年という月日だけで、こんな風に変われるものなのか。
 自分の両手をぐっと握りしめた。

「私、先に帰ります」

 クラリネットの繋ぎ部分を乱暴に外し、スラブで適当に二、三回通してケースの中に無理やり突っ込む。
 そのまま流れのように近くにあった自分の鞄を引っ手繰るように取ると、二人に背を向け歩き出した。
「あ、由紀ちゃん待って」幸の慌てた声が背後から追い付いてくる。

 私の視界の片隅で、一瞬幸のクラリネットが異様な光沢を持って焼きついた。
 
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