YUKI

2 あの頃


 大学の合格通知が収まった封筒に一緒に紛れていた、大学案内のパンフレット。
 まるで分厚い新聞広告の中にひっそり紛れている半紙のように頼りないそいつをぱらぱらとめくる。
 その文字は、飛び付くように私の視界に入ってきた。

『吹奏楽サークル とぉんきごう  初心者大歓迎☆一緒に音楽を楽しみませんか?』

 吹奏楽。その単語がやけに心に響いてきたのを覚えている。
 高校時代、私は中学から続けて吹奏楽部に所属することはなく、まるでベクトルの反対なバレー部へと入った。
 特にバレー部に思い入れがあったわけじゃないけれど、見学した際になんとなくメンバーが愉快な印象を受けたからだ。
 自分の運動神経が鈍いことなんて忘れて入ったその部活には、結局一年足らずで辞めてしまった。
 目の前で同じようにパンフレットを食い入るように見つめる幸に、私は声をかけた。

「幸は、もうこの吹奏楽サークルに入るって決めてたんだっけ?」
 
 うん? と幸が小首をかしげてこちらのパンフレットを覗いてくるので、私は吹奏楽部のところを指さす。ああ、と幸が頷く。

「うん、そうだね。私、クラリネット吹くのだけが楽しみだし」

 てへへ、と遠慮気味に笑う幸。そうだよなぁ、この大学受ける理由の一つだったんだから、とぼんやり私は思った。
 特にこの大学の吹奏楽が有名だった、という訳ではない。ただ単に、お金のかからない国公立で、人数が少なくアットホームな印象があった為だ、と幸は言っていた。

「由紀ちゃんはどうするの? ……やっぱり、やらないの?」
 伺うように私を見つめてくるその視線は、パンフレットと私の顔とを忙しなく往復させていた。
「うーん……。どうだろうね」
「他に行きたいサークルがある、とか?」
「いや、特にないかなぁ。てか、サークル入るかどうかも微妙だなぁ」

 そっか、と幸は呟き、それ以上は何も言わなかった。私も黙る。
 喫茶店の中にお客は少ない。平日の午後なんて、大体どのお店でもこういう感じなのだろう。
 寂しい店内で雑巾片手にガラスを磨く店員の後ろ姿を盗み見しながら、オレンジジュースを飲み干した。

「はぁーあ。受かってから決めようかなぁとは思ってたけど、受かった後でも決めらんないもんだなぁ……」

 もう一度、サークル紹介ページの欄を見る。吹奏楽サークル、とぉんきごう。なんで「ぉ」なんて小さい文字にしてるんだろう。可愛さをアピールしようとしたのかな。なんか、変なの。
 ケチをつけて場を盛り上げようと私が顔を上げた時、ようやくそこで幸がじっとうつむいているのに気がついた。驚いてとっさに声が出なかった。

「私は」蚊が飛ぶような小さな声で、幸が言った。「もう一回、由紀ちゃんと一緒にやりたいな……」

 座席にうずくまり、その姿は完全に縮こまっていた。
 駄目、かなぁ。もう一度、本当に本当に小さな声で幸が言う。
 店内のピアノBGMが痛いほどに私の鼓膜を揺さぶる。雑巾片手にガラスと格闘する店員が、こちらをちらちら見遣っている。
 驚いた。と同時に、懐かしさが思い出の引き出しから沁みこんで思わず吹きだしそうになった。
 あぁ、こいつ、ホント、変わらないよなぁ。その内本当に吹きだしたら、幸が肩を強張らせて目をまん丸にしていた。

「幸、変わんないよねぇ、そこは」
「へ?」
「そうやって、何か頼み事するときはすぐ団子虫になってさ。あの頃その様子を友達に見られて『ちょっと由紀、さっちゃんいじめちゃ駄目でしょー』てマジで言われてなんか可笑しかったよ。
 私が『違うってこれは幸の癖で〜』て言ってもその友達あんま信じてくれなくてさ。もう参ったよ」
「え、知らなかった……ごめん由紀ちゃん」幸が更に団子虫の殻を固くした。私は笑った。
「いやいや、今謝られてももう遅いでしょ? それにそんなこと全然気にしてなかったしさ。ほら、早くソーダ飲んじゃいな、薄くなっちゃうよ」

 幸が頼んだまま手をつけていないソーダを近くに寄せてやると、まるで強要された人質みたいに恐る恐る手を伸ばす。その顔に拳銃突き出してやったらどんな顔するんだろうこいつ、なんて変な想像が巡る。横に視線を向けると、店員は何事もなかったかのようにガラス磨きに没頭していた。

「そういえば私、中学の時ずっと由紀ちゃんに迷惑かけてたよね」

 ソーダを三口飲んで落ち着いたのか、幸がぽつりと漏らした。

「そーそ。まるで私がいじめっ子で、幸がいじめられっ子みたいな図だったよ。
 あ、いや、私が怖い姉貴で、幸がビビりまくりの妹って図が正しいのかも」
「そう言われればそうなのかも」ふふ、と幸が笑った。「ごめんねお姉ちゃん」
「ホント、出来ない妹を持つってのは苦労するよ」

 二人でしばらく視線を交わしあった後、声を立てて笑った。


 その後も、二人で冗談を言い合ったり、あの頃の思い出等を語ったりした。そして、オレンジジュースが入っていたグラスの氷が完全に溶けきっているのに気付いた辺りで、私は外を見遣る。
 すでに外は闇が覆い始め、夜へのバトンタッチが行われていた。人通りも多くなってきて、制服を着た人々、スーツを纏った人々が元居るべき場所へと歩みを早めている。ガラス磨きの店員の姿はもう店内になかった。
 そろそろ帰らなきゃやばくない、と私が切り出すと幸も時間の経過にようやく気付いたようで、本当だね、と立ちあがった。
 レジで幸が支払う前に私が二人分の金額を払い、遠慮して金を渡そうとする幸を置いて先に外に出ると、少しだけ温かみを含んだ空気が出迎えてくれた。深呼吸して、一週間後に二人で大学に通う姿を思い浮かべてみる。一昨年改築され、一面ガラス張りとなり生まれ変わった大学へ。

 ――けれどそこに登場してくるのは、大人物の格好良いバックを持ってひらひらのスカートをひらめかせ、好きな異性の話やバイトの苦労話で花を咲かせている憧れの姿ではなかった。
 中学の制服を纏った、私と幸の後ろ姿だった。

「……なんか、もうどうでもいいかなぁ」

 突然の私の台詞に、横に並んだ幸はクエスチョンマークを浮かべて首を傾げた。私は視線を前に固定したまま続ける。

「サークル。面倒くさいとか思ってたけど、大学生活ってなんか暇の連発らしいじゃん。暇を持て遊ぶほうが面倒くさいような気がしてきたんだよ」
「そうなの?」意味を理解しきれていない幸が曖昧に尋ねる。「暇を持て遊ぶって、面倒くさいもんなのかな」
「そういうもんなの」自分でも言っている意味を理解出来ていなかったけど、取りあえず強く頷いておく。「ヒマヒマ呟きながら四年間過ごしてヒマヒマ言いながら卒業するのも面倒くさいしね」
「うーん……。よくわかんない、それ」
「ま、幸は理解しなくてもいいよ」

 とにかくね、と私は幸に向き合って告げた。

「吹奏楽、もう一回やってみてもいいかなってこと。どうせヒマヒマ言って卒業するくらいならヒーヒー言いながら卒業したほうがマシかなってさ」

 幸はしばらく目を瞬かせて立ち止った。が、後にくすりと顔を綻ばせた。

「それもよくわかんない」
「えー? ちょっと、これでも分かりやすく言ったんだぞ?」
「もう由紀ちゃんの言ってること分かんないよー」
「なんだってぇ?」

 笑いながら先を走っていく幸の後を、「待て―!」とさながらアニメの有名泥棒を追いかける某警部のマネをしながら、私は思った。


 きっと、大学生活は上手くいく。

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