ティーンエイジ・エール
9
扉を開けると、淡いオレンジ色が視界いっぱいに広がり、目がくらんだ。廊下の窓から差しこんでくる夕陽が、全身を包み込んでいることに気が付いた。もうこんな時間になっていただなんて。
ゆっくりと振り返る。どうやら私は、校舎三階にある、今は使われていない理科準備室にずっと閉じこもっていたようだった。そういえば少しだけ薬品臭かった気がする。鼻水に埋もれた鼻は、あまり利いてくれない。
辺りはとても静かで、物音一つしなかった。校舎の中には、もうすでに誰もいないのかもしれない。
これから私は一体、どうすれば良いの?
こんな場所に居たって、何の意味もない。かといって家に帰っても、また母さんと嫌な雰囲気になるだけ。そんなのもうたくさんだ。
ふと思った。周りのやつらは、自分勝手すぎる。好き勝手に暴れ回って。思うがままに振舞って。こちらの気持ちなんて知らないで。分かろうともしないで。ただ自分のことしか考えていなくて。
けれど、そんなの、私だって同じじゃないか……?
あぁ。もう、訳が分からなかった。
いっそのこと、人一人いない世界へ行きたいと願った。
誰もいない世界。とても素敵だろうなと思う。だって、こんなことに一々悩まなくても、苦しまなくてもいい。とてもとても、楽な世界。
そして、とても寂しい世界。
欲しい、と思った。
その世界が、欲しいと思った。
私はふらふらと廊下を進んだ。その先には階段があるはずだ。屋上へと続く階段が。
脈拍が急かすように速くなる。走ってもいないのに息が荒くなる。けれど足は鉛がついているかのように重い。何度かつまづいて倒れそうになり、そのたびに歯を食いしばる。視界がまたふやけだす。淡いオレンジの汚い世界が歪みだす。
あぁ、早く。早く早く早く……っ!
その時だった。
ふと、何かの音が聞こえてきた。思わずピタリと足を止める。
なんだろう、この音。
それは低くとどろき、空気を切り裂くような勢いで継続的に鳴り響いている。時折ふっと止んだと思っても、すぐにまた聞こえてくる。
途端に心が惹きつけられた。私は引っ張られるかのように、音のする方へと近づいていく。ちょうど私が向かおうとしていた方角。屋上からだ。
近づくにつれ、ぼやけてはっきりしなかったそれが、段々と輪郭を持ちはじめる。力強く私の耳を打ってくる。
雄叫び、だった。
とても苦しみに満ちた、悲痛の叫び。
私の胸を、ぎゅうっと締め付けるほどの。
『最近じゃ、学校の屋上で雄叫び上げるような頭狂ったヤツもいるっぽいし』
ふと、裕子が前に教えてくれた噂を思い出す。
――あぁ。きっと、これのことなんだ。
なんだか、似ているのかもしれない、なんて思った。きっと私も、今声を出したら、こんな風に壊れた感じで……。
ようやく屋上の扉の前までやってきた。私は躊躇わず、扉を開けた。その隙間から雄叫びが勢いよく溢れ出してきて、肌に迫ってくる。あまりの迫力に、一瞬くらりと眩暈を起こしそうになった。
屋上の奥にある、高さ二メートル程はあるフェンスへしがみつくようにして、制服を着た男の子が一人で立っている。その誰かは、闇に染まりつつある空へ向かって、声にならない声を発し続けている。時には両手でフェンスを激しく揺らし、身体を悲痛に歪ませながら。
それはまるで、冤罪によって牢屋に閉じ込められた囚人が、必死に外へ助けを求めているような姿だった。
男の子の小さな身体と心全部を振り絞って発せられるその叫びは、あまりにも直球すぎて、あまりにも私の胸を強く叩いてくるものだから、心がたちまち雁字搦めになった。
私はその男の子を――全身泥にまみれているその姿を、ただただ見つめ続けた。
五十嵐君、だった。
「あ……あぁぁ――――」
気付いたら私も声を漏らしていた。同時に、足の先から、太ももへ、お腹へ、心臓へ、そして頭の先へと形容し難い冷たい感情の波が一気に突き抜けていく。そして身体の底から胸の奥から、急激に温度が抜け落ちていって、ただただひどく震えはじめた両手で自分の頬に触れて――
頭の中が、空っぽになった。
堪らずに、私は駆け出す。そしてぐちゃぐちゃになる感情を、声にして思い切り吐き出した。喉を引き裂くような勢いで、声が、息が、鼓動が、全部溢れだす。彼と同じように、フェンスにしがみつきながら、必死に叫ぶ。
私の悲鳴は、隣から発せられるもう一つの雄叫びと溶け合って、切ないほどに強く強く、学校中をとどろかせていったような、そんな気がした。
※
「私、どうすればいいのか、よく分からないんだ……」
私たちは、フェンスの向こうにある夜空を見上げた。その間、生ぬるい風が絶えず私たちを通り過ぎていく。それにもてあそばれる私の髪や、制服のスカートや、五十嵐君のシャツ。
誰にともなく胸の内を語っている私の声はすでにガラガラで、それがなんだか可笑しくて、私は自然と自嘲気味に笑っていた。
「そもそも、なんでこんな所にいるんだろう、なんて考えちゃうんだ。なんでこんなバカみたいな場所に閉じこもっているんだろうって。
そりゃ、出ていこうと思えば出ていけるかもしれないけれど。でも、そんな勇気、私にはなかった。
だからただ、『しゃーねぇ』なんて無理にでも思い込んで、過ごしていて……。
でも、それももう、限界っぽい」
ほとんどまん丸に近い月の数センチ下で、一際強く大きく輝いている、一つの星を見つけた。真っ白くて、真っ直ぐな光を放つ星。
あの光……。いつか見たものと似ているな、と思った。
あぁ、そうだ。私が欲しいと願った、あの"光"だ。
そっと隣を盗み見る。あの時強い"光"を瞳に宿していた彼は、今では凪いでいる海のごとく、穏やかな瞳で空を見上げていた。感情が見えないその顔は、気のせいかとてもすっきりとしているように見えた。
私は、体育館裏で見つけた彼の姿を、脳裏にそっと思い描いてみる。
けれども何故か、あの時の苦悶に歪んだ顔や、彼の瞳に宿していた"光"が、ひどく寂しく悲しいものに映ってしまう。どうしても、さきほど屋上で叫んでいた彼の姿と重なってしまう。
フェンスを持つ手に、ぎゅっと力を込めた。途端に目から溢れだしそうになるものを必死に押しとどめるために、ぐっと顔を上げた時だった。
「――だったらここで思いきり吐き出せばいい」
驚いて、隣へ視線を向けた。
彼はさきほどと変わらない表情で、夜空をただ見つめながら口を開いた。
「ここで思いきり吐き出せば、その分、軽くなれる」
それだけ言うと、フェンスから手を離した彼は、くるりと私に背を向けた。そして、今度はしっかりとした足取りで、校舎に続く扉へと向かっていく。
「待って!」
私が呼び止めると、彼はぴたりと立ち止ってくれた。
その小さな、けれど大きな背中に、私は声を振り絞って伝えた。
「ありがとうっ」
数秒程してから、再び彼は歩き出す。そして校舎の中へと消えていった。
――思いきり吐き出せばいい。
五十嵐君の言葉を噛みしめる。確かに重荷が下りている自分の心を感じながら、私はもう一度顔を上げる。
あの白く輝く星は、今も変わらずに真っ直ぐな光を放っている。もしかしたら、この世の全ての鬱憤を浄化してくれているような、そんな頼もしいヤツなのかもしれない。なんて思った。
そんな星に向かって、私は最後に、声を張り上げる。
今度は私一人だけの、強くとどろくエールだった。
<了>
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