ティーンエイジ・エール
8
永遠とも言える時間が、私の身体を通り過ぎていったような気分だった。
ようやく足に力が入ると、私はトイレから出た。足取りがおぼつかなく、壁に手をあてなければ歩くことも出来ない。
視界には、あの便器の染みが残っている。まるで薄汚れた世界の中を一人歩いているようだった。
校舎一階の廊下らしき場所を歩いていたら、向かいから走ってきた誰かにぶつかった。そのまま倒れそうになった時、身体全体が温かいものに包まれた。かすかなタバコの匂いが鼻腔をくすぐる。
「綾音……? 大丈夫か?」
顔を上げれば、沢原の顔があった。眉をひそめながら、心配の色をたたえた瞳で私を見つめてくる。
「昼になっても姿が見えないから、心配したんだぞ」
身動き一つ出来ない私に向かい、沢原がもう一度言った。とてもとても甘い響き。そして、今だけはなぜか柔らかく見える表情。
みるみるうちに目と胸の奥が熱くなってきた。腹の底から何かがぶわっと溢れだしてくる。吐き気とは違う何か。それは、さきほど体育館で爆発させた感情になんだか似ていた。だけど今度は噴火せずに、じわじわと私の胸をしめつける。
苦しい。苦しい。苦しい……!
「……んな……」
「――ん?」
「私にさわんなっ!」
私は声をあげていた。声の限りに叫ぶ。
触んな、私に気軽に触んな、こっちくんな、ヤメロ――!
自分でも次第に何を言っているのか分からなくなった。それでも悲鳴のように叫び続ける。叫び続ける。
背中に感じる手の力がとたんに強くなる。反対に私は身体全部を使ってそれから逃れようと必死に暴れた。けれど無駄だった。きつくきつく抱きしめられる。
タバコの匂いが強くなる。以前ならばあれほど嫌な匂いだったのに、何故だか今では安心感を覚えている。
ああ――。違う。触ってほしくないんじゃない。
触れてほしかった。抱きしめてほしかった。
一人にしないでほしかった。
奥に潜んでいた気持ちにふっと気づいてしまい、身体の力が抜けた。私はされるがままに目の前の男に抱きしめられる。その腹へ顔を埋めながら私は子供のように泣いた。泣き続けた。
そのままどこかへ連れていかれるのを、遠い意識の中で感じていた。
※
いつまでそうしていたのか分からなかった。
ハッと我に返り、沢原から顔を離して辺りを見渡す。そこは狭い生徒指導室の中だった。
「どうした? 何か嫌なことでもあったか?」
目の前に立つ沢原が、そっと私の頬に触れてきた。ざらついた指先の感触にいつもの不快感を覚えない。むしろ慈しむようなその動きに、心が揺れ動く。
ただぼうっと担任の顔を眺めていたら、ふいにそれが耳元まで寄ってきた。
「だから、言っただろ。俺はお前のこと、よく知ってるんだ、って」
突如男は全身を使って私を包み込んできた。強引に抱きよせられて息苦しい。
仕舞いには床へなぎ倒された。背中からは床の冷たく硬い感触が伝わってくる。上からは男の熱い体温と荒い息遣いだけが覆いかぶさってくる。私の唇が生ぬるい何かに吸い寄せられた。次にとろりとした熱いものが口の中を這いまわった。
もはや私はされるがままだった。ぎゅっと目を閉じる。涙が次から次へと溢れて止まらない。
このまま男と一緒なら良いと思った。
ずっとこの時が続けば良いと思った。
人が恋しかった。
けれど、その時間も長くは続かなかった。
胸に何か違和感を覚える。瞬間に私は泥沼のような意識からハッと目覚めた。短い叫び声を上げる。
視線の先には恍惚とした男の表情がある。そこには動物が本能に身を任せているかのような生々しさが剥き出しになっていた。稲妻に似た衝撃が体中を駆け抜ける。全身の肌が粟立つ。
目の前にいるのは、ただの男だった。
「や……っ!」
身をよじろうと必死に足掻く。それでも男の力はすさまじい。大きくごわついた手が今度は私のスカートの中を侵入してくる。
一気に上も下も分からなくなった。私は無我夢中で手足をばたつかせる。再び叫んだ。叫びまくった。でも男はしがみついてくる。決して離してくれない。頭の中が余計にぐちゃぐちゃになる。身体の感覚もおかしくなる。
なんだよ、なんでよ、こんなの、こんなこと、望んでない。
助けて。
誰か助けて……!
耳が裂かれるような大きな物音がした。振り返った男の全身から力が抜ける。その隙を狙って私は抜けだした。
開かれた扉には年配の女性教師が立っていた。目を剥いてこちらを見つめている。その人が、一体何なのですかこれは、と叫んだのと同時に私は立ち上がる。扉で立ちつくす先生へ体当たりする勢いで部屋を抜け出した。
逃げるように走り続ける。途中で何度も何度も転び、それでも必死に足を動かしながら私は強く強く願った。
どこか別の世界へ消えてしまいたい、と。
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