僕らの小さな夏祭り。

7 夕立の向こう、提灯の光


「急いでテントの中へ!」

 同じテントの下にいた役員さんが、舞台上にいる人たちへ叫ぶ。浴衣を必死に抑えつけ、あらいやだ、あらいやだと悲鳴を上げながら、おばさんたちが階段を降りてくる。
 視界は見渡す限り、雨のベールに包まれていた。公園の外では自転車を慌てて漕ぐ子供の姿や、家に向かって退避する近所の人や、テント下に慌てて潜り込む人たちの姿が見えた。
 うわ、降ってきちゃったね、と私が言葉にしようとした瞬間に、裕也君が飛び出した。

「え! ちょ、裕也君!?」

 彼は一直線に舞台上へと駆け登っていく。やがて太鼓の傍で屈みこんだ。見れば、まさに太鼓を叩いていたあの男の子が、舞台の真ん中で立ちすくんでいる。
 少しの間戸惑ったけれど、「ええい!」と覚悟を決めて、私もテントの下から出た。途端に大粒の雨が全身にぶつかってきた。

 舞台上へ上がると、その男の子は片腕で目を押さえながら叫んでいた。

「いやだぁ……! もっと太鼓叩きたいぃ……!」

 鉢をもう片方の手に持ちながら、何度も喚いた。
 そんな男の子のずぶ濡れの頭を撫でながら、裕也君も負けじと叫ぶ。

「わぁった! また今度な、智紀! 今はテントの下まで行くぞ!」
「いやだぁいやだぁ! まだちょっとしか叩いてないのにぃ!」
「だから、また後で叩かせてやるって!」
「いーやーだぁ!」

 全身を打ちつけてくる雨が激しくなっていく。雨音も酷くなり、それと比例するかのように、男の子――智紀君の泣き声も大きくなっていく。
 小さな腕を引っ張りながら、なんとか連れだそうとする裕也君。それでも智紀君は泣きやまない。ちっとも動こうともしない。ただ太鼓にべったり寄り添って、舞台下へ引っ張られるのをひたすら拒んでいる。

 ――どうしよう。このままじゃ、風邪をひいてしまうかもしれない。
 そう思った時、ふとある記憶が脳裏をちらりと横切った。
 あ、とまた声を上げそうになった。

 激しい雨。びしょびしょになった当時のお気に入りの服。小学生の私は泣き虫で、そんな私に隣でそっと声を掛けてくれた、幼い彼の声。
 全てが今この瞬間に起きた出来事のように、頭の中で再生された。
 途端、胸がじんと熱くなった。

 ああもういい加減にしろよなぁ、と頭を抱えはじめた裕也君の隣へ、私は屈みこんだ。
 そして、鉢を振りまわそうとする智紀君の頭をそっと両腕で優しく包み込みながら、言った。

「大丈夫。これは夕立だから、すぐに降り止むよ。
 でも、泣いてばっかりだとお日様も出てこれないよ? 太鼓も叩けないよ?
 ほら。ここに居ても風邪引いちゃうから、テント下に行こう」

 腕の中で暴れていた小さな魂が、次第に鎮まっていくのが分かった。
 耳元でそっと、「本当に?」と問いかけてきた。しゃっくりの音も混じりながら。
 私はこくんと頷いた。にこりと微笑みかけると、智紀君の全身から、ふっと力が抜けるのを感じた。
 ほら行くぞ、と傍で裕也君が促すのに続いて、私達は手を繋ぎながら、舞台を降りていった。

 ※

 智紀君はテントの下に着いてからも、ずっと顔を俯いたままで、けれども鉢を手放すことはなかった。どうやら傍で見守っていた智紀君の母親がやってきて、私達に頭を下げた後にその小さな息子を抱き上げた。次の瞬間、大きな泣き声がテント下に木霊した。私は途端に申し訳ない気分になってしまった。雨、早くやめばいいのだけれど。

 テント下ではタオルを抱えたシズおばちゃんが待っていて(家からすぐに持ってきたらしい。さすがシズおばちゃん)、まるで滝修行でもしてきたみたいな格好になっている私と裕也君に、急いで渡してくれた。
 ケンイチおじちゃんは相変わらず豪快に笑っていた。「よくやった!」なんて、私達の背中を叩きながら。本当に呑気なおじちゃんだ、と思わず苦笑が漏れた。
 やれやれ。あいつホントに泣き虫で我儘なんだよな、とタオルで頭を覆いながら、ちらりと智紀君を見て裕也君がぼやいた。

「俺ん家のすぐ隣に住む子なんだけど、何故だか俺にしつこく付きまとってくるんだよ」
「慕われているんだね」

 クスクス笑ってあげると、裕也君はふいっとそっぽを向いた。金の髪から覗く銀のイヤリングが、ちかりと照れ臭そうに光った。

「……さっきは助かったよ。ありがとな」

 タオルで覆われているせいで、その表情は見えなかった。
 私はゆっくりと、頭を横に振った。

「そんなことないよ。
 あの台詞……昔、裕也君が私に言ってくれた台詞なんだよ」

 こちらを振り向いた彼の瞳は、まん丸に開かれていた。俺、そんなこと言ってたっけ? とその瞳が語っていて、私は小さく吹きだした。

 ――泣くなよ! これは夕立ってやつだから、すぐに降り止む! それに、お前が泣いてばっかりだと、お日様も出てこないぞ?

 いつの頃だったかは覚えていない。でも確かに、裕也君は必死な顔で言ってくれたのをちゃんと記憶している。
 その言葉で、当時の私はどれほど救われたのだろう。

「すごく嬉しかった。そして、すごく安心できたんだ。
 過去の話だけど、お礼言うのは私の方。ありがとう」

 テントの外では幾重にも重なる激しい雨が、白いベールを作り出していた。先が全く見えない。勢いを衰えさせる様子も見せない。近くで誰かが、「こりゃ中止だなぁ」と漏らすのが聞こえた。
 私が顔を上げ、厚い雲の向こう側に潜んでいるであろう太陽を探そうと、目を凝らした時だった。

「俺さ。今、専門学校行ってるんだよ」

 見ると、裕也君は頭に被さっていたタオルを取り、視線を足元に落としながらぼそりと呟いていた。
 突然の告白に私は何も言えず、黙り込んでしまう。
 ぽりぽりと鼻の頭を掻いた後に、やがて彼は言った。

「保育士の、資格、取ろうと思って」

 『保育士』。
 その単語が目の前の男の子とどうも上手く重ならなくて、私は一瞬混乱した。
 ……保育士?

「保育士って、あれだよね? 保育園とかで子供の面倒を見たりする、あのお仕事だよね?」
「それ以外何があるんだよ」

 裕也君がぶっきら棒に言いながら、顔を伏せてしまった。
 耳たぶはすっかり赤くなっていて、なんだか湯気が立ち上りそうなくらいだった。
 それでも言葉が上手く呑み込めずにきょとんとしていると、彼が言葉をつっかえさせながら、ゆっくりと語ってくれた。

「D高校に入学した後に、なんか違うって思い始めたんだよ。俺がしたいのはただ社会の役にも立たない勉強をしたいわけじゃないって。
 このまま普通の学校生活送って、普通の大学入って、普通のサラリーマンになっていくのか、なんて考えたら虫唾が走って。
 人によっては、その普通が幸せかもしれないけど、俺は嫌だったんだ。まぁ、高度な勉強についていけなくて自信喪失したって面もあるけど。
 だから、佐藤の言った通り、思い切って高校辞めた。
 そりゃ、周りからすげぇ反対されたけど、それでもなんとか説得させて辞めたんだ。
 そんで専門入った。保育士の。
 別に子供は嫌いじゃないし、ガキらとわいわい騒ぐ人生送る方が、なんつーか、普通よりかはマシかなって思って……」

 その声は、段々と柔らかい旋律になって耳に届いた。
 恥ずかしそうに伏せる瞳は、けれどその奥で力強い光を発しているように見えた。
 途端、隣にいる彼が、決して私が届くことのない高尚な場所に立っている存在に思えて、どくんと胸が高鳴った。
 『保育士』の単語と目の前の彼が、この時ようやくしっくりと重なった。
 私は思わず、「すごい」と呟いていた。

「それ、とってもすごいことだよ」

 不思議そうな瞳を向ける彼に、私はいつの間にか熱弁していた。

「あのね、正直言うと、私、裕也君が高校辞めたって聞いた時、悪い予感ばっかりしてたの。何か辛いことあって中退したのかなって。
 でも、そうじゃないんだね。裕也君はちゃんと自分の道を探して、決断したんだね。普通じゃそんなことできないよ、尊敬だよ。
 それに、保育士って仕事、良いと思う。裕也君って面倒見良いし、智也君みたいに親しんでくれる子もいるから、きっと良い保育士さんになれるよ。ううん、絶対なれる。
 こんな、将来のことなんて何も考えていない私なんかと比べたら、すっごくすっごく偉いよ!

 次々と言葉が口から溢れだした。そんな私の脳裏には、自分の模擬試験の結果がこびりついていた。
 ――なんとなく大学受験しようとしている私なんかと、全然違う。

 裕也君はただ口を閉ざしながら、じっと私を見ていた。その表情は、憐れみでも同情でもなく、無表情に近い。
 私はつい目頭が熱くなりそうになり、唇を結んだ。ふいに、いっそのこと罵って欲しい、という衝動に襲われた。
 こんな惨めな私を指差して、お前は馬鹿だなぁ、なんて笑い飛ばしてくれた方がいっそ清々しいのかもしれない、とも思った。
 ねぇ、裕也君。お願い。私のこと、馬鹿にしても良いんだよ……?
 
 けれど彼は笑わなかった。
 替わりに、視線を雨の向こうへと投げ飛ばしながら、静かに告げた。

「……将来のことなんて、誰だって分からないし、不安だし、恐いよ。
 それに、俺は佐藤が思う程すごくないぜ?
 だって、見方変えれば、やるべきことから逃げたとも言える。実際、親にも言われた。せめて高校卒業してからにしろって。それでも高校を辞めた。
 どうだ? こんなの、傍から見りゃ情けないもんだろ」

 言いながら、裕也君は苦笑した。
 そんなことない、と私が言いだす前に、彼は続けた。

「俺からしてみれば、ちゃんと正当な道歩もうとしているお前の方が『すごい』と思う。しかも大学受験だろ? 俺には絶対出来ないなぁ。受験なんて面倒臭いもん、二度とやりたいと思わないし。まぁ、俺が逃げてる証拠だな、これって。
 それに、将来のことなんて大学入ってからでも十分考えられるし。出ておいた方が、何かと安心だしすごく健全な道だと思うけどな、俺は」

 気付けば、私達を包み込んでいた雨の音が薄くなっていた。
 見上げれば、雲は一面の濃い灰色の状態から、すっかり泣き腫らした後、散れぢれになって浮かんでいた。隙間から、小さな星がいくつか覗いていた。その提灯みたいな優しい光に、心がほのかに暖められた気がした。
 なぁ、佐藤。呼ばれて、私は隣を振り向いた。
 裕也君は、昔と変わらない意地悪っぽい笑みで、言った。 

「お前一人じゃないんだって。苦しんでるのは」

 とくん。
 胸が大きく弾けた。今まで胸に籠っていた霧を吹き飛ばすかのような衝撃。
 私は動けなくなった。ただ心臓だけが、激しい鼓動を伝えていた。

 と同時に、ふと周囲が静かになった。
 裕也君が外を見て、「あ、雨止んだな」と言った。私もつられて外を見た。雨のベールは消えて、地面のところどころに水たまりがある。とても綺麗だと思えた。
 隣で男の子の嬉しそうな声が上がった。智紀君だ。その手にはがっちりと鉢が握られている。
 こちらに振り向いた智紀君が、ぶんぶんと大きく手を振ってくれたので、私たちも振り返した。無邪気な笑顔につられ、自然と頬が緩んだ。
 近くで役員さんたちが、この後どうしましょうかと相談しているのが耳に入ってきた。

「地面もぐちゃぐちゃですしねぇ。
 まぁ……あと一曲盆踊りの曲かけてから、抽選会にしましょうか」

 智紀君に配慮してだろうか。その事実を知った太鼓の演奏者はまたもや嬉しそうにとび跳ねた。再び私達の方を見て、おぉい裕也兄ちゃんー、と元気よく叫んだ。
 はいはい、まったく、と返事して歩き出そうとする裕也君の背中を、私は慌てて呼び止めた。
 くるりと振りかえる裕也君。途端、破裂しそうになる心臓。顔も火照り始めた。
 それでも、私は「よしっ」と胸の内でガッツポーズを作ると、声を大にして言った。

「また、来年の夏祭りも来てよ。私も、来るからっ!」

 しばらくしてから、裕也君は笑顔で「おう」と返事してくれた。そして、私は重大なあることに気付き、「あとついでに、後で携帯の番号も教えて!」と慌てて付けたした。はいよ、と彼が楽しそうに笑ってくれた。
 口の中に、またいちごのかき氷の味が蘇ってくる。
 甘いその味に、頬がとろけそうになった。


 どん、どん、どん。

 夜空に、太鼓の音が響いていく。 
 それは、私たちの夏祭りの再開を告げる、力強い音だった。


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