僕らの小さな夏祭り。
6 過去と現在
「佐藤」
最初、呼ばれていることに気付かなかった。
数秒程して気付いた私は、慌てて裕也君へ顔を向けた。
「お前、今……K高校だっけ」
「あ、う、うん」
ふぅんそうか、と呟いたきり裕也君は黙った。視線は前方に向けられたままだ。私も倣ってそちらを見遣る。
舞台上では、今まで太鼓を叩いていた女の子が階段を降り、替わりに小さな男の子が階段を上っていた。裕也君を最初に見かけた時、彼と会話していた男の子だ。緊張しているのか興奮しているのか、その肩はビンと張り詰めていた。
「部活とかやってんの」
「バレー部。もう引退したけど」
「ああ、そうか。ちょうど、三年だもんな」
「今は受験生らしく、勉強漬けの日々だよ」
「へぇ。大学、受けるのか」
「まぁ、一応」
鉢を両手に持ちながら、太鼓へ対峙する男の子の横顔が見えた。頬が引き攣っているのが遠目からでも分かった。不安と緊張がこちらまでひしひしと伝わってくるようで、だからなのか、私はつい「受かるかどうか、分からないけどね」と口にしていた。「なんで」裕也君が尋ねた。
「Dランクなの。四月からずっと。
なんでだろうね。勉強さぼってるつもりはないの。むしろ一生懸命にかじりついてる。でも一向に結果が良くならなくてさ。
夏休み入る前に、先生からも言われちゃったんだ。夏休み明けても評価が変わらなかったら、大学のランクを落とした方が良いよって」
事務的に告げた先生の言葉が胸の内に蘇り、ちくりと痛むのを感じた。それが、今でも不思議だった。
「正直言っちゃうとさ、今の第一志望は、そこまで行きたいと思っているわけじゃないんだ。
たまたま家の近くにあって、他と比べれば校舎が綺麗で、偏差値も頑張れば手が届く範囲にある。それだけなの。
悪い条件じゃないからそこでいっかぁ、みたいな」
でも実際、手に届きそうもないと分かると悔しがる自分がいる。
頭の中では、別のどこの大学でも良いじゃない、とにかく大学に入学出来ればいいと思っているのに、心だけは正反対に疼く。
自分でもよく、分からない。
裕也君はそれ以来何も言わなかった。再び降りる沈黙。私はそっと彼を見た。その横顔に、先ほどと変化した様子は特に見られなかった。ただ遠い眼差しで、舞台上にて太鼓を叩き始めた男の子をじっと見守っている。
どん、どん、どん。
太鼓のリズムが始まった。空気を切り裂かんとする力強い音だ。舞台上で、少し大げさな動作で鉢を振るう男の子がいる。いつの間にか真剣に燃える顔つきに変わっていた。
どどどん、どん。
太鼓の音と同時に、ごろごろ、と雲の上で何かが大きく唸る音が聞こえた気がした。ふと空を見上げる。先ほどより暗黒の色が濃くなっていた。
ヤバいかもなぁ、と裕也君は呟いた。再び隣へ視線を戻すと、彼も空を心配そうに見上げていた。
ふいに胸が詰まった。今更のように、私は実感していることに気付いた。
裕也君が隣にいる。中学以来まともに話すことのなかった彼が、あの頃よりもっとうんと大きくなった彼が、すぐ傍にいる。
何故だろう。数時間前から一緒に居た筈なのに、今になってその事実にハッとするだなんて。
すると急に私は居ても経ってもいられなくなり、自然と口を開いて尋ねていた。
「ところで、裕也君は今、何をしているの?」
その眉がぴくりとわずかに反応し、ひっそりと吊りあがっていく。
垣間見てしまったその渋い表情に、私の心臓がどくんと毒づいた。
しまった。尋ね方が悪かったと、今になって後悔する。
『何をしているの?』だなんて、それじゃあ、今何もしていないみたいじゃない。
――いや、実際、彼は何もしていないのかもしれない、という思いが胸をよぎった。
沈黙が恐くなって、私は慌てて言葉を繋いだ。
「ご、ごめんね。実は、一年ぐらい前に、お母さんから聞いたことがあったの。
裕也君が、D高校中退したこと。
すごくビックリしたの。やっぱり、県内で一番偏差値高い所だと大変なのかなぁ、とか、それとも何かあったのかなぁ、とか、色々考えちゃって、心配になったりして……」
口がうまく回らなくなった。心臓が破裂しそうなほどに脈を打ち始める。
隣の裕也君はしばらく黙りこむ。私も二の句が継げなくなって、黙り込む。
やがて、彼はその重そうな口を開いた。
「俺は――」
ぽつん。
頭上からテントを打つ音が聞こえて、私は顔を上げた。
ぽつん、ぽつん、ぽつん。
段々と早くなるそのリズム。
あ、と気付いた時には、既に『ざー』に変わっていた。
雨が、降り始めた。
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