僕と弟の、最終ラップ。


「うわぁ、また負けちったよ、ちきしょお!」

 慶太はそう叫ぶと、持っていたゲームのコントローラーを床に叩き落とした。
 どしん、と大きな音が六畳間の居間に響いた。

「こらこら。壊れるだろーが」

 隣で胡坐をかいていた僕が忠告してやると、テレビの前で仁王立ちしている幼い慶太は、小さな頬をむすっと膨らませた。

「だってぇ。これでじゅっかいめなんだもん。兄ちゃん、てかげんしろよなぁ」

 テレビ画面を睨みつけながら、慶太は落としたコントローラーをしぶしぶと拾った。
 画面には真ん中に一本の線が入っていて、二つに区切られている。
 上部には、僕が操作していたカートがゴールを終えた今でも走り続けていて、下部には、結局ゴールテープを切ることが出来なかった慶太のカートが、コース途中で寂しく停止している。
 一位を飾るトロフィーを片手に、カートの中で微笑む僕の操作キャラを見つめながら言った。

「兄ちゃんはいつだって手加減してやってるぞー?」
「えぇ。じゃあなんでボク、勝てないの?」
「慶太が弱すぎなんだよ」

 からかうと、慶太は「兄ちゃんのばかぁ!」と言って、その小さな手を僕の肩目掛けて振りおろしてきた。
 でも、その手は虚しく空を切った。
 僕の透明な身体を突き抜けて。
 それでも慶太は意にも介していない様子で、今度は負けないぞぉ、と一人ガッツポーズを作って張りきっていた。
 僕はただ、苦笑するしかなかった。

「……んじゃあ、次は一面の初心者コースにしようか」
「うんっ!」
「多分、今日はこれで最後かな」
「そっかぁ。じゃ、がんばろっと!」

 元気よく頷く慶太の笑顔を見届けた後、壁時計を見上げる。
 午後二時四十分。
 僕が『ここ』に居られるまで、残り二十分。
 一時間前からきりきりと疼きだしていた心臓が更に縮こまっていく感じがして、苦しくなる。
 けれどそれに気付かない振りをして、慶太にそっと笑いかけた。

 ――僕はもう、決めたんだ。
 今日で、慶太との日々を終わらせようと。

 ※

 こんな身体になってしまった僕が最初に目にしたのが、弟である慶太だった。

 それは何の前触れもなかった。気付いたら目の前に、体操座りをした慶太が、きょとんとして僕を見上げていたのだから。
 あの感覚は恐らく、真っ暗な部屋にしばらく閉じ込められた後、突如として電気が付けられハッとする感覚に似ていると思う。
 最初は混乱した。訳が分からなかった。数秒ほど慶太と見つめあった後、視界をぐるりと見渡してからようやく、ここは自分の家の居間なのだと理解した。
 壁に掛けられたカレンダーは九月になっていて、僕はますます混乱した。あれ、まだ四月じゃなかったっけ?
 もう一度慶太を見下ろす。背後の窓から注がれる強烈な太陽光を受けて輝く慶太は、みるみるうちに笑顔を作り、やがて「兄ちゃんだ!」と騒ぎだした。興奮を抑えきれないままに、弟は勢いよく居間から飛び出していった。
「かあちゃん、とおちゃん、ほらみて! 兄ちゃん帰ってきたよ!」と大声を上げながら。
 一人残された僕はふと、テーブルの向こう側に、以前の記憶にはない「それ」が置かれているのを見た。
 そこで僕は全てを悟った。瞬間、頭の中が空っぽになった。
 「それ」は、僕の遺影だった。

 しばらくして、日曜の休暇を家で過ごしていたらしい父と母が居間に現れた。二人とも、狐につままれたような表情をして。
 慌てて居間を走らせるそれらの視線は、けれど僕を捕えることはなかった。するりと見事にスルーされてしまう。え、なんで? 苦しみ出す心臓を抱えて、僕は呆然とするしかなかった。
 慶太だけが、二人の足元できゃあきゃあとはしゃいでいた。

「ほらほら! ボクの言ったとおりでしょ? ずぅっとずぅっと待ってれば、兄ちゃん帰ってくるんだよ!」

 だけど両親はただ深いため息を吐いただけで、やがて何も言わずに、居間から離れていってしまった。
 ほら、ここに兄ちゃんいるよ、ねぇなんで無視するの、ねぇねぇ、と廊下に響く慶太の無邪気な声が、僕の脳みそをがんがんと揺らした。
 なんで、僕、死んだのだろう。
 唯一記憶に残っていたのは、高校の帰り道、目の前に猛スピードで突っ込んでくる何か巨大な物だった。

 それから僕らは、カーレーシングゲームを始めた。生前、よく二人で遊んでいたテレビゲームだ。
 陽気な慶太に誘われるままにプレイし始めたのだけれど、いつの間にかそれが僕らの日課になった。
 僕はもちろんコントローラーに触れることは出来ない。けれど、頭の中でコントローラーを操作しているイメージで指を動かすと、その指示通りに画面のカートが動いた。まさかと思ってびっくりした。慶太は「すごぉい! 兄ちゃんって"ねんりき"が使えるんだね!」とぴょんぴょん跳ねていた。

 でも、時間が限られていた。
 ――三時間。

 僕が『ここ』にいられる、タイムリミットの数字だ。
 それに気付いたのは、『ここ』に現れてから三日程経ってからだった。"その時"がくると、ふっと意識が抜ける感覚に襲われて目の前が真っ暗になる。そして次に視界が回復した時、同じ居間の中で、当然のように隣に居る慶太が僕を指差しながら笑うのだ。「きょうも、兄ちゃん帰ってきた!」と。
 初めは恐ろしかったけど、今ではそれが普通になった。
 しかも時間は決まっていて、昼の十二時から三時の間だ。

 神様は僕にこんなことをさせて、一体何がしたいのだろう?
 そんな疑問は日が経つにつれて薄れていって、どうでもよくなった。
 単純に楽しかったのだ。たった三時間の間でも、毎日慶太とゲームしながら馬鹿騒ぎ出来るのが。
 実は、僕が死んでいるなんてのは何かの冗談であるかのように思えた。僕はそう、生きているのだ。
 それになにより、慶太の生き生きとした笑顔を見れるのが嬉しかった。
 十二時で目を覚ました僕の視界にいつも飛び込んでくるのが、テレビの前で体操座りをして寂しそうに顔を伏せる、慶太の姿だった。それを目にするたび、僕の心はずきんと痛んだ。
 だから僕は、慶太との日々をめいっぱい楽しんだ。わざと慶太の進路の邪魔をしたり、時には失敗した振りをして順位を譲ったり。
 弟は僕の行動で一一喜んだり怒ったり悲しんだりしたりして、とにかく表情をコロコロ変えては、最後に大きな笑顔を咲かせていた。

 けれど、それが一週間ほど続いた時、僕ははっきりと自分の愚かさに気づかされた。
 それは一昨日のことだった。突然、居間のドアが開いた。急いでゲーム画面をストップさせて振り返れば、そこに母さんが立っていた。
 母さんが居間に来ることは時々あった。最初は心配そうに居間を覗きこむけれど、一人喜ぶ慶太を見てすぐに何かを諦めたような表情をし、奥へと引っ込んでいく。
 でも、その時は違った。母さんは、今にもはちきれてしまいそうな表情をして慶太を見ていた。僕の心がどきんと跳ねた。

「かあちゃんっ! 今ね、兄ちゃんとゲームしてるんだよぉ!」

 慶太は母さんが来るとお決まりのように、意気揚々と声を張り上げて僕を指差した。
 母さんは、その指の先へと視線を向けた。もちろん、母さんの瞳に僕の姿が映っていないことは分かっている。
 視線の焦点は、僕を通り越したテレビ画面にしか結ばれていない。

「ほら、みてみて! いまね、ぼくがお兄ちゃんに勝ってるんだよ!」

 そう言って勢いよく走りだし、母さんの腕を引っ張る慶太。
 母さんの目が、徐々に純血しはじめるのが見えた。慶太を見下ろしながら、涙が次々と頬を伝ってはその小さな頭の上へ落ちていく。
 僕はただ、馬鹿みたいにじっとしてその光景を見ることしかできなかった。やがて母さんは思い切り慶太を抱きしめた。腕の中で慶太は首を傾げていた。

「ねぇ……慶太。もう、"お兄ちゃんごっこ"するの、やめましょう?」
「えぇ?」慶太は更に首を曲げた。「なにいってるの、かあちゃん。兄ちゃんはホントにここにいるんだよ?」
「お願いよ慶太」母さんはぎゅうっと腕に力を込めた。「お願いだから、もう学校行きましょう? 何度も言ってるけど、兄ちゃんはね、お星様になって帰ってこないのよ。だから、そうやって毎日ずっと座って待ってても駄目なのよ、慶太。それにね、ゲームは学校から帰って、お友達と一緒にやれば楽しいわよ。だから、ね?」
 けれどそんな母さんのお願いも虚しく、慶太は「そんなことない!」と大声を上げて暴れ始めた。

「兄ちゃんはちゃんとここに居る! ボクとゲームしてるんだ! ボクがずっと待ってたからちゃんと兄ちゃん帰ってきたんだもん! ほら、ちゃんと見てってばぁ!」

 手足をばたつかせ、やがて大きな泣き声を上げ始めた小さな小さな怪獣を、母さんは押さえつけるように抱きしめながら、静かに泣いていた。
 僕の心は完全に行き場を失っていた。底なし沼にすっぽりとはまってしまったのように、ずぅんと沈んでいくのを感じた。息が苦しくなった。幽霊だから呼吸なんて出来ていないのに不思議だった。でも確かに僕の気道は、きゅうと縮こまっていた。

 ふと、居間の隅――テレビと反対側に置かれた小さなランドセルに目がいった。その上に埃がずいぶんと溜まっていることに、ようやく僕は気付いた。
 そうだ。慶太はまだ小学三年生じゃないか。なんでこんな当たり前のこと、今まで忘れていたんだろう?
 それに、慶太はいつから居間に座って僕を待っていたのだろう。きっと――僕が『ここ』に現れる前からだろう。ランドセルの埃の積もり具合が、それを語っていた。もう何か月もあれに触れていないんじゃないのか? 恐らく、僕が消えた、四月から。

 嗚呼、とようやく理解した。神様が僕を『ここ』に送りだしたのは、僕の為なんかじゃない。慶太の為だったのだ。
 頭を抱えたくなった。激しい後悔に心が満たされていくのを感じた。結局僕は、自分の都合の良いことしか考えてこなかったんだ。
 居間の中にはしばらく、慶太の生命力あふれる泣き声と、母さんの静かに鼻を啜る音と、それを窓の外で傍観するように降る雨の音が混じりあって、渦巻いていた。

 ※

 僕はもう一度、確認するように壁時計を見遣る。
 午後二時五十分。残り、十分。
 形だけの深呼吸をして、僕は心の中で、よし、と呟いた。昨日から続いていた、僕の最後の覚悟。
 今日こそ、言わなきゃいけない。
 慶太にはまだ、明日という未来が――次のコースラップが待っているのだから。

「慶太」

 最終ラップ。ゴールテープのギリギリ手前で、僕は自分の操るカートを急停止させた。
 下画面に映し出されている慶太の操るふらふらなカートが、ようやく最終ラップへ突入したところだった。

「なぁに? ……あ、兄ちゃんなんだよ。ゴール前でわざと止まって、いじめるさくせん? いっやらしぃ」

 視線をテレビに固定させたまま、慶太は笑顔でぶうぶうと文句を言った。
 僕は慶太を見た。テレビ画面を真剣に見つめるその横顔は、テレビの光によって陰影がくっきりと映し出されていた。
 くりくりの大きな目の下には、痛いほどに濃い隈が出来ている。以前なら瑞々しい果実のようにふっくらしていた輪郭が、今や枯れてしまったかのように窪んで薄い影を作り出していた。
 何かが溢れだそうとするのを必死に抑えるようにぐっと天井を見上げて、何度も何度も頭の中で練り直した台詞を思い返しながら、ついに僕はそれを口にした。

「兄ちゃんさ。これでゴールしたら、そのまま消えて、二度とここには、戻ってこないと思う」

 慶太の操るカートがスピードを落とし始め、やがてコースを外した。
 隣からは何の返事もなかった。眉ひとつ動かさない慶太。それでも僕は続けた。

「慶太、ごめんな……。すごく楽しかったよ、慶太と一緒にゲーム出来てさ。
 でもな、兄ちゃん、もう『ここ』にいられる時間、ないみたいなんだ。きっと、神様が怒ってるのかな。"お前は長く遊びすぎたから、そろそろこっちにこい"ってな」

 幼い弟からは何の気配も感じなかった。
 僕は自分の両手を見つめた。向こう側にある床のフローリングが、くっきりと見え始めている。確実に透明度が増していた。もう戻れない。ぐっと目を固く瞑った後に、僕は慶太を見つめながら言った。

「なぁ、慶太。最後に、兄ちゃんと一緒にゴールしようか。そしたら次からのコース、お前一人で走れよ。分かったか?
 兄ちゃんはもう、慶太と一緒のコースを走ることは出来ないけれど。でもな、観客席の方からずっとお前のこと見ててやる。
 慶太は今何位かなぁ、とか、おっせーなぁとか思いながらも、ずっとずっと、見ててやるから。
 お前がコースの上を走ってる限り、兄ちゃんはいつまでも観客席にいて見守ってる。約束するよ、絶対。
 だから、なぁ、慶太。最後に一緒に、ゴールしよう」

 言葉は思っていたよりも、すんなりと出てきてくれた。
 途切れ途切れにだけれど、ようやく伝えることができた。僕の、最後のお願い。
 見ると、慶太の顔は完全に床に伏せられていた。

「……だ……いや……だ……」

 やがて、か細い声が聞こえてきた。
 運転手を失った慶太のカートはいまや、壁に沿ってゆっくりゆっくりと進んでいた。

「いやだ…………いやだぁ……」

 蚊の鳴くような悲痛の声。慶太は徐々に震えはじめた。その振動が大きくなるに従って、僕の胸も震えた。
 途端、大きな咆哮が上がった。
 うおぉ、とか、うあぁ、とか、力強い叫び声が居間に大きく広がっていく。
 そして獣と化した慶太は勢いよく立ち上がり、辺りに置いてあったあらゆる物――コントローラー、ランドセル、挙句には僕の仏壇に置いてあった物までも――を、そこかしこに投げつけていった。
 膨大な「生」のエネルギーが充満されはじめた場所で、僕はその行為を止めることもせず、ゴール前で死んだように動かない自分のカートをただ静かに見つめた。

 今なら、はっきりと実感することが出来る。
 慶太と僕は、住む世界が違うのだ、と。

 ※

 そのエネルギーは、十分もしないうちに萎んでいった。
 静かになった居間の真ん中で立ち尽くす僕は、壁時計を見上げた。もう三時を過ぎていた。神様はこういうところだけ優しいらしい。思わず苦笑が漏れた。

「兄ちゃん」

 暴れ終わった小さな怪獣は、フローリングの上で大の字になって寝ころんでいた。盛大に腫れた目で、僕を見上げている。

「何だ?」と、僕は優しく問いかけた。
 体力を全て使い果たした為か、慶太の目はとろんとしている。片手には、しっかりと握られたコントローラー。

「いつか、いつか……またいっしょに、ゲームやってくれる……?」

 テレビ画面では、二つのカートが仲良くゴールテープ前に並んでいた。
 あと少しで、レースは終わる。

「ああ」僕はにっこりと笑った。「また、慶太がうんと大きくなって、僕よりもいっぱいいっぱい走って、もうエンジン限界! てとこまで来たら、またやろう。新しいコースでな」
 慶太もかすかに笑ってくれた。道端に咲く小さな花のようなその笑顔は、僕にとっては十分眩しすぎた。そして、きっとこの先も大丈夫だろうという安心感を、もたらしてくれた。

 やがて二つのカートは、同時にゴールをくぐりぬけていった。 


 

2011.07 脱稿。
執筆する一年前に書いた、1000字程度の同ネタを短編用に書き直した作品です。
 


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