キミとぼくの竜。

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第一章の1



 その重大な失態に気付いたのは、隣に座る友人からの一言だった。

「なぁ。この講義のレポートやった?」
「げっ……しまった! レポート、あったんだっけ!」

 思わず、山田壮平はそう叫んで立ち上がった。
 五十人ほどしか入れない小さな講義室に、壮平の声が大きく響き渡る。さきほどまで盛んだった周囲の話し声が、その瞬間、ぷっつりとやんだ。
 しまった、と思って周囲を見渡す。同じ二年次の国文学科生たちの、驚きと困惑の視線と絡み合う。「す、すんませんっ」と急いでぺこぺこ謝り、椅子へと座り直した。クスクスと笑い声が湧き起こる。
 壮平はただ、恥ずかしさに赤く染まる顔を俯かせるしかなかった。隣からは、「忘れたのかよぉ壮平」とからかわれる始末だ。

「すっかり記憶から抜け落ちてたんだよ……!」

 ちっくしょう……!
 もはや、頭を抱えて小さく呻くしかなかった。

 この前期のテスト期間は、多くのテストとレポート課題に追われていたために、とにかく不得手なものから処理していこうと躍起だった。
 まずは一日目にある英語のテスト対策勉強。次に、一般教養のテスト対策。次に、五千字以上の規定がある厄介なレポート……といった具合に。

 自分の中では、全てを順調にクリアしたと確信していた。だからこそ、テスト期間最終日である今日の午前中で最後のテストが終了して以降、壮平の気分は清々しかった。
 あぁ、ようやく終わった。あとは、午後に一コマ残っている講義を受ければ夏休みの到来だぞ!
 そう思っていたのに。

「この講義のレポート課題、なんだったっけ……」萎んでいく風船のごとくへなへなと机に突っ伏して、壮平は尋ねた。
「伝説の生き物についての考察。各自が好きな伝説上の生き物を調べてくる、てやつだよ。ちなみにオレは『天狗』について調べてきた」

 あぁ、確かそんな内容のレポートだったっけ。失望に埋もれながら壮平は思った。

 この国文基礎研究の講義では、主に古代の伝承や神話を取り扱っている。二年の必須単位であるために仕方なく出席しているのだが、その内容がつまらなすぎる。なにせ先生がホワイトボードの前で延々とテキストを読みあげるだけなのだから。
 クソつまらないと思っているのは壮平だけではなく、他の学科生たちもだ。その証拠に、講義中は寝ていたり内職していたりする子が大半で、中には携帯ゲームに興じる子までいる(おまけに最新機種だ! それを見かけるたび、自分も欲しいなぁ、と悔しい思いを抱いていた)。
 だからかもしれない。この講義にレポートがあるという事実を、すっかり忘れていたのは。

 課題が発表されたのは、確か二週間ほど前だったような気がする。鞄から講義用のノートを取り出し、最後の書き込みがあるページを開く。その端に、レポートの概要が走り書きされていた。伝説の生き物についての考察。二千字以上。
 そして、自分がレポートのテーマにしようと考えていた「伝説の生き物」の名前も一緒にメモされている。
 『竜』。
 理由は、調べやすそうだったのと、少しは興味があったから。

「あぁ……。誰か、竜についてレポート書いてる人、いないかな」
「おいおい。それを丸映ししたって駄目だろ」
「違うって。ちゃんと変えるよ。語尾だけ」
「……壮平。諦めろ」

 友人に宣告され、壮平は涙を流しながら机に倒れた。


 数分後、担当の講師(頭の光具合が素敵な中年男性)が現れた。教卓に着くやいなや、開口一番に「それではレポートを提出しなさい」と告げる。
 学科生たちがぞろぞろと立ち上がり、教卓にレポートを置いたのちに席へ戻っていった。ほぼ全員が提出していく様子を、壮平は指をくわえて見つめるしかなかった。とほほ。
 その列が途切れるタイミングを見計らって立ち上がり、先生の元へと向かった。そして玉砕覚悟で告げる。レポートやるの忘れました、と。
 途端に、目の前の講師の瞳が細められ、こちらを射竦めてくる。思わずたじろいだ。権力者からの容赦ない攻撃。
 それでも、単位をこの手で掴むために、諦めるわけにはいかない。ぱしんと両手を合わせ、拝むような格好で声を振り絞った。

「ホント、マジすんませんっ! 絶対の絶対、今日中にレポート仕上げるんで! だからお願い、単位落とさないで!」

 周囲から再び沸き起こる笑い声などお構いなしに、心の底から懇願する。あぁ、もういっそのこと、諭吉札百枚あげてもいいからっ!
 しばらく厳しい眼光を向けてきた先生だったが、やがて目を閉じ、やれやれと肩をすくめると言った。

「仕方がありませんね。ならば、今日の夜までは大学にいますから、その時までにレポートを提出しなさい」

 ぱぁ、と壮平の目が光り輝く。気づけば先生の手を取り、「どうもありがとうございます! ベリーベリーサンクス!」と連呼した。先生の頭から反射される光が、この時だけは後光が差しているかのように眩しく見えた。あぁ、ありがたや、仏様。

「よし! あと三時間くらい図書館に篭ればなんとかなるっ!」

 席に着くやいなや、よっしゃあ、とガッツポーズを作った――が。

「図書館、今日閉まってるぜ」
「……はい?」

 突如として横槍を入れられ、壮平は目を点にさせて隣を見つめた。友人はさらりと言う。

「だって今日、第三月曜日だろ? 図書館の閉館日じゃないか」

 その言葉に、白く固まる。
 数秒後、絶叫を上げた壮平の頭に、教卓から飛んできた黒のマーカーが直撃することとなった。「がふっ」と短い叫びとともに、机へ倒れ伏す。
 そうだ。すっかり忘れていた。大学の図書館、第三月曜日は休みじゃないか!

 ――どうする? 壮平は頭を必死にフル活動させる。大学図書館が休みならば、別の図書館へ行くべきか。けれどここからでは片道一時間ほどもあるし、交通費もかかる。
 ちっ……。こうなりゃもう最後の手段だ。この世にはネットという便利なツールがある。そこに君臨するwikipedia先生にでも頼むしか――

「ねぇ、壮平君。レポート、何について調べる予定なの?」

 背後からひそひそと声を掛けられた。
 振り向けば、この学年の国文学科生の中でも一際ギャルっぽい女子が、人懐こい笑みを浮かべてこちらに顔を寄せているのが見えた。斎藤絵理だ。
 
「竜だけど……」そこで、もしやと気付いた。「まさか。斎藤さんは、竜で調べた?」
「うん」
「じゃあ見せて!」

 テキストを淡々と読みあげている先生の声を邪魔しないよう、なるべく小声で強く懇願した。
 けれど絵里は意地悪い笑みでふるふると首を振るだけだった。

「だってもう、レポート提出しちゃったしぃ」
「元のデータがあるだろ? USBかなんかに残してない?」
「家のパソコンでやってきたから、データなんて持ってないしぃ」
「なんだよそれっ!」

 がっくし、と壮平の頭が下がる。期待させやがって、こんにゃろー。

「……あぁ、でもねぇ」

 絵里の口元がひん曲がり、何かが裏に含まれているかのような声音に変化する。

「竜についてすごい知識を持っている子なら、知ってるんだけど」

 自分の席へと戻りかけた壮平の身体が、ぐるりと絵里に向き直る。

「……それ、マジ?」
「マジマジ。だってあたし、その子にレポート書いてもらったんだもん。あ、私と同じ高校の後輩なんだけど。
 その子、すっごいのよ。竜についての知識がめっちゃ豊富でね。資料なしで全部書いちゃったんだから!」

 再び壮平の目に活力が宿りはじめる。これは良い情報を得たぞ!
 さっそく「その子、教えて!」と言おうとした時だった。
 ふいに、親指と人差し指で丸形を作った右手を顔の横へと持ってきた絵里が、にやりと微笑み、

「英世三枚で良いよ」
「めちゃくちゃ高ぇよ!」どしんと両手で机を叩いて叫んでいた。

 ――だがしかし、このチャンスをみすみす逃すわけにはいかなかった。単位を逃さないためには、こちらの選択肢などもはや一つしかない。
 にやりと確信した笑みを向ける絵里に向かって、結局、壮平は泣く泣く頭を下げるしかなかった。
 
 のちに、壮平の頭へもう一本の黒マーカーが飛んできて、本日三度目の笑いを誘うことになったのだが。


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