講義が終わると早速、その子との待ち合わせ場所である食堂へと向かった。
「くっそー……。斎藤のヤツ、覚えてろよ……」
向かう途中、誰一人いなくなった財布の中身を覗きこみ、大きく肩を落とす。
躊躇うことなく千円札を受け取って「まいどー」と微笑んだ斎藤絵理は、まるで金の悪魔のような女だと思う。にしても高すぎだろうが。もう少しまけてくれたっていいのに。
絵里によれば、竜について異常なほどに詳しい知識を持つその子の名は、『西原多摩美』。同じ国文学科の一年。とにかく背と髪が長く、モデルのように可憐な美人だという。
壮平の頭に、たちまち妄想が膨らんだ。すらりと背が高く髪も長い。モデルのような美人の子。最近テレビで有名な女性モデルの顔に、自然と重なる。
一体どんな子なんだろうか。自然と足どりが軽くなるのを感じていた。
数分で食堂へと辿りついた。絵里がメールでその子と連絡を取り、指定してもらった待ち合わせ場所である。
その子――多摩美は、普段はあまり大学へ来ることはないのだが(サボり癖があるのだろうか?)、今日はテストがあるのでたまたま大学内にいたのだという。
自動ドアを抜け、百人は収容できそうな程の大きな食堂を見渡す。北側と西側がガラス張りになっているために、午後の日差しが差し込んで明るいそこには、大学生らがまばらに座っていた。ほとんどがお喋りに夢中になっていて、少しだけ賑わっている。
えーっと、髪の長くて美人なモデル女性はどこかな、と……。
なんだか変態みたいだけど、『西原多摩美』の特徴をそれしか知らないんだから仕方ないんだ。自分にこっそりと言い聞かせる。
食堂の一番奥にある、壁ガラスへ面するように設けられている一人用席の左端で、女性が一人でぽつりと座っているのが目についた。こちらに背を向けている。その長くて艶々な黒髪が一際目立っていた。
どきりと胸が反応する。もしや、あの子が『西原多摩美』さんか?
期待に胸が弾むが、それよりも緊張で頬を引き攣らせつつ、女性の元へと一歩一歩近づいていく。
そしてようやく、女性の背後へたどり着いたものの、そこでぴたりと立ち尽くす。さて、どうやって声を掛けようか。
『あの、もしもしすみません。西原さんでしょうか』。なんだかセールスマンみたいだ。
『いやぁどーもどーも。キミが西原多摩美さんかなぁ?』。なんかキモいな。
『西原さんだね。その髪、とても綺麗で素敵だよ』。ナンパしてんのかよ!
ふいに、目の前の彼女がくるりと振り返った。前触れもなくその視線とかち合った瞬間、壮平は「うぉっ」と意味もなく叫んでいた。
彼女の円らな瞳が、こちらをじっと捉えてくる。ちょこんと付けられたかのような小鼻に、可愛らしい花の蕾みたいな口。
まさに絵里が言っていたとおり、モデルみたいに整えられた顔だ。しかも、自分より大人なオーラを醸し出している。
驚きと胸の高揚で喉が詰まり、ただただお互いに見つめあっていたら、突如として彼女が吹きだした。
「あっははは! 何この人! おもしろぉ!」
壮平へ人差し指を差しながら、大口でげらげらと笑っている。まるで子供のようにお腹を抱えている姿に、壮平は唖然とした。
「あ、あの、」と戸惑いつつも声をかければ、ようやく気付いた彼女がこちらへ向き直る。
「めっちゃ不審者っぽかったよ」
「はい?」
「ガラスに映ってた」
彼女の背後にあるガラスの壁へと、ハッと視線を遣る。しまった。さっきのアホみたいな姿、見られてたのかよ!
くぅ、と悔しさに地団駄を踏んでいたら、彼女がすっと手を差し伸べてきた。
「メールにあった、『田中壮平』先輩、だよね? 私、西原多摩美。よろしく!」
天真爛漫な笑みで多摩美は言った。さきほどの子供みたいな言動とはうってかわり、大人で清楚な印象のある笑顔だ。そのギャップに、壮平は多少面喰う。
なんとか戸惑いを払拭し、その手を握ろうとどぎまぎしつつも右手を差し出したら、
「で、さっそくなんだけど。『竜』についてのレポート書くんでしょ?」
あっさりと多摩美の手が下げられる。空を掴む形になり、若干落胆しつつも壮平はうんと頷いた。
「そうなんだよ。今日中に仕上げなきゃならないレポートでさ。調べようと思っても、図書館閉まってるし――」
「一時間」
右手の人差し指を一本立てて、多摩美は言った。「一時間だけ私に時間をくれれば、レポート、書けるよ」
「な……マジかよ!」壮平は飛び上がった。「え、一時間で書けんの? てか、書いてもらっていいわけ?」
「だって、私が書いた方が早いっしょ? それに、書きたいし」
にんまりと微笑みながら、彼女は優雅にウインクした。
「まぁ任せてよ。竜は私の得意分野だから」
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