YUKI

6 あの夕空へ


 ばんっ。
 勢いのついた大きな音で、私はゆっくりと瞳を開けた。
 目の前の大きく開け放たれた扉には、肩で大きく息をしている幸の姿があった。頭には何重にも包帯が巻かれていて、左頬には大きなガーゼが貼り付けられている幸。それだけで十分に怪我の酷さを物語っている。
 少し視線を巡らして、あぁ、と理解した。部室のテーブルの上で、私はいつものように伏せて、全身の力をだらんと抜いていた。何をするでもなく、ただ当たり前のように。
 だけどいつもの感じと違うのはすぐに分かった。頬に伝わるテーブルの冷たい感触がない。息を吸ってみても、部室特有のほこりっぽさが感じられない。目に映るものは全部現実のものなのだろうけど、それは映画のような現実感を失った薄っぺらい映像のようにしか思えず、遠近感が全くない。目を閉じる。今の状況が分かってしまうと、何かがすっと胸に落ち着いた。

 私は、どうやらそれらを感じる手段を失ってしまったようだった。


「……由紀…………ちゃん……」

 視界の中で苦しそうに呼吸している幸が呟く。瞬く間にその瞳に涙が溜まり始め、ぽろぽろと落ちていく。目はもうすでに真っ赤で、頬には涙の跡がすでに出来上がっていた。
 その姿は自然と、あの日バスに乗り込む前に見た幸の姿と重なる。何日間も溜めこんだ思いを全て涙にして押し出したような、とても辛そうな表情。
 でも、今目の前にいる幸は違う。ぽろぽろと思いを吐き出しながらも、目は痛々しそうに真っ赤に腫らしながらも、頬はあの時のように強張ってはいなかった。緩やかな頬にゆっくりと涙は優しく辿っていく。取り返しのつかないことをしてしまった日に見た大粒の四分音符と違うその涙は、やっぱり綺麗だな、と素直に思えた。
 そして何故だか、歯痒かった。
 だから、私は手を伸ばし、ごく自然に幸に笑いかけた。

「おいでよ、幸」

 その声に一瞬戸惑った様子は見せたものの、後に幸は目を細めて大げさなぐらい大きく頷いた。


「……実は私、ここで目覚める前に、あの事故が起きる前の、幸との記憶の中を彷徨ってたみたいなんだ。

 それがやけにリアルでさ。本当に、その日のその場面に実際にいたような感覚でさ。当時の気持ちとか手触りとかまんまなの。なんか記憶辿ってるっていうより、当時の私になりきってたっていうか、なんていうか。
 なんだったんだろうね。私にその記憶を繰り返し見せつけることで、私にやり残したことを再認識させようとして、どうにかしようとしてくれたのかな。
 だって実際に、幸はここにきてくれたんだもんね。普通の常識じゃ、あり得ないでしょ? こんなこと。
 ……ホント、なんていうの、神様って案外お節介さんなんだなぁなんて思うと笑えるよ、マジでさ」
「……うん。そうだよね。
 ――私もね、突然感じたんだ、由紀ちゃんはきっと、ここにいるんじゃないかって。今この瞬間を見逃したら絶対後悔するって、なんでか知らないけれど、思ったの。
 だから、本当は安静ってことで入院中だったんだけど、お医者さんやお母さんの目をすり抜けてこっそり来ちゃった。
 でも良かった。神様のお告げ通り、来てよかった」
「結構ここから遠くない? 大丈夫だったわけ?」
「うん。大丈夫。病院は駅近くだし、ここまで五駅だし」
「……そっか。なんか、幸にはいろいろ苦労かけちゃってるね。
 でもさぁ、そこんとこは神様も意地悪だと思わない? なんでこの場所なんだろう。私が、幸のいる病室で目覚めれば良かったのに。
 そしたら、幸がここまで来なくても済んだのに」
「うーん……、そう、かなぁ。私は、ここで良かったって思ってる。
 ここじゃないと、駄目だったんだと思う」
「なんで?」
「……なんでだろう」

 なんだそれ。私は笑った。すぐ傍で同じようにテーブルに伏している幸も笑った。

 小さな窓からは、透明な光の筋が薄暗い部室内を優しく橋渡ししていた。その中で小さな粒子一つ一つが、まるでスポットライトを当てられたかのように、キラキラと舞い踊っていた。
 そんな現実感を喪失した幻想的な光を背に受けながら、私と幸は、部屋の中央でテーブルにだらりと頭を預けて並んで座っていた。
 小さな蝉の声が遠くから聞こえてくる。部室の壁掛けカレンダーはまだ九月のままだけれど、デジタルの時計は十月になっていた。
 もう、そんなに時間が経っていたんだと思い知る。大体、一か月ほどか。

 ――嗚呼。

 喪失感も虚しさも湧いてこなかった。ただただ、心がポッカリとしていて、ああそう、みたいな納得したようなしていないような、曖昧な言葉しか浮かんでこなかった。
 しばらくして、幸が事故の状況を詰まらせながらも詳しく話してくれた。記録的な大雨の為に、バスの通り道であった山道はかなり地盤が緩んでいたこと。想定外のことで、別の道を行こうにも引き戻せない距離まで来てしまったのでそのままバスは危ない道を通ったこと。そしてかなりの量の土砂がバスを襲い、横転して車内に雪崩のごとく押し寄せてきたこと。乗っていた部員のほぼ大多数が埋まってしまったこと。場所が場所だけに
 救助が難航した結果、生存者は三分の一程度の悲惨な結果だったということ。陽子先輩はなんとか助けられたものの、今も意識が戻っていないこと。
 幸は悲痛な表情ながらも、淡々とした口調で言葉をつづけていた。涙はもう先ほどで出尽くしてしまったのか、目の表面に浮かぶものの零れはしなかった。一か月という月日で、幸はその状況を静かに受け入れるようになったのだろうか。

 ……そっか。

 私は一言、呟いた。
 目を閉じてあの日のことを思い出そうとしてみる。だけど、今はもう何も出てこなかった。あのこびりついたどす黒い土の色でさえも。
 けれど私はその時の様子を想像してみる。抵抗空しく埋もれていく部員たち。なすがままに倒れゆくバス。そして――

「……ねぇ、幸」
「うん?」
「幸は事故の時の瞬間、覚えてる?」
「……全然。思いだそうとしても、何も思いだせないよ」
「そっか。……やっぱりそうか。私も、そうだから。
 そういう、自分が事故った瞬間っていうのは、人は覚えていないものなのかもね」

 そうかもしれないね。幸が小さく呟き、部室の静寂の中に吸い込まれていった。
 ふと窓を見上げると、生い茂る木々の隙間からオレンジの色が見えた。時計に視線を移すと、長針はもうすぐ六を指そうとしていた。
 もう、こんな時間だったのか。時の流れが、まるで分からない。
 このままぐずぐずと幸と話しているわけにはいかない、と思った。
 早く、本題のことを言わないと。
 この邂逅の機会を、逃すわけにはいかない。


「――ごめん」
「え?」

 目を大きく見開いた幸の顔を、私は心から溢れそうな何かをぐっと堪えながら見つめた。

「……本当は、事故の前に手紙書いてたから、それ渡して終わらせようとしたけど……きっと土の中埋もれててダメになってると思うから、口で直接伝えるよ。ああ、でも今思えば、ダメになってくれて感謝するべきなのかな。
 本当のことを言っちゃうとね、中学の頃はさぁ、私、幸のお姉さんみたいにふるまうことで、幸より上の存在になることで、なんていうか、自己満足していたんだよね。他に誇れるものなかった私だったから、そう振る舞うことで自分に自信もたせてたのかもね」

 幸の瞳の底に、しんと静まる、深い深い海の底が見えた気がした。そこには何も不純物なんてなくて、綺麗にろ過された神聖な水が広がっている。正直、反射光が眩しかった。

「で、幸は第一志望の高校にちゃんと合格して、きちんと吹奏楽続けて、友達もそれなりに出来ていたようだったし、好きな人のことで少し思い悩んでた、みたいなことも言ってたし、ホント、充実した生活送ってたじゃない?
 私は……、ダメだったんだ。第一志望の高校落ちただけで捻くれちゃってたんだと思う。何もかもかが上手くいかなくてさ。あんたが羨ましかったよ、幸。ホント、私ダメな人間だね。
 大学一緒になって、大人になった幸の隣に、何も変わっていない惨めな私が一緒にいることは――正直言って苦痛だったんだよ。嫉妬、ていうやつなのかな、よく分かんないけど」

 手紙に書いていない言葉まで、口をついて出てくる。今まで溜まっていた私の中の感情が、波となって今、堤防を破って溢れだす。

「私たち、"友達"なんて言えないよね、こんなの。
 もう、ホント、悔しいよなぁ。私何も前に進んでなくて、でも幸はちゃんと進んでて、正直な道行ってて、うらやましくてさぁ。
 ――嫌だ、自分なんて嫌な人間なんだろね、ホント、ヤんなっちゃうよマジ、結局、幸がいないと何もできないんだって自覚するの、避けてたからかもしんない……っ」

 幸に広がる神聖な海の底のあまりの深さに、私は堪え切れなくなって、視線を逸らしてテーブルに顔を埋めた。本当なら泣きまくってしゃくり上げたいのに、それが出来ないのがもどかしくてもどかしくてどうしようもなかった。
 嗚呼。
 神様の意地悪。馬鹿。
 馬鹿、馬鹿……! 

 
「――――それだとしても」

 刹那。
 幸の凛と透き通る声が、私を一気にこの世に覚醒を呼び起こす。あふれ出た感情の洪水が、ぴたりと止まる。


「由紀ちゃんは、私にとって、大事な大事な友達だよ」

 
 ゆっくりと、私は先ほどまで見つめていた、瞳の中の静謐な海を見た。その海の表層は先ほどよりも波が立っていて、すっ、と一粒の滴が外へと漏れだした。
 幸は、泣いていた。

「だって私、中学で由紀ちゃんに会っていなかったら、今の私はいなかったと思う。
 由紀ちゃんはさっき、高校で充実した生活送ってた、て言ってたけど――そうでもないよ。
 高校では、由紀ちゃんみたいに安心して頼れる子っていなかったから。何でも気兼ねなく話せる子なんていなくて、ホントはちょっぴり心細くて、でも由紀ちゃんに携帯で連絡とればいつでも相談とか出来るからそれで安心できていたんだ。
 ごめんね、由紀ちゃん。私が頼りないから、由紀ちゃんばっかり頼ってたから、苦しい思いさせちゃったんだよね」

 言い終えると、幸は顔を埋めて泣いた。思いっきり、泣き始めた。
 その大きく揺れる肩を見つめながら、私はようやく悟った。
 そう、ようやく。プライド高いし、捻くれ物だから、気付くのが遅くなってしまったけど、ようやく分かった。
 "友達"は、やっぱり私にとって、幸しかいない。
 こんな風に、安心して肩を並べることが出来て、気兼ねなく本音を言えるのは――
 
 幸、あんただけだよ。

 もう、幸が私より大人だとか、私が劣っているとか、そんな馬鹿みたいな優越なんて、関係なかったんだ。

 私は手を伸ばす。隣で泣きじゃくる小さな肩に触れようとする。でも、触れられない。ふ、と質量を感じることなくすり抜けてしまう。それは雲を掴むような、虚しくて悔しい気分だった。
 もう、あのバスの中の時のように、幸の体温を感じることは出来なかった。
 でも、通じあうことはできた。あの頃なら絶対に出来なかったこと。
 二人の、思い。


 ※


「ねぇ、由紀ちゃん、覚えてる?」
「何を?」
「昔見た、空に浮かんでいた天国」
「天国? ……あ、もしかしてそれって、幸と一緒に帰ったときに夕空にあった、あれ?」
「そう、多分それ。私、思わず『天国の入り口みたい』って言っちゃったけど……」
 幸の目が、伏せられる。影が濃くなる。
「由紀ちゃんは、あそこを通って行っちゃうの?」
「…………」
 私は思い出す。
 あの日、空のキャンパス一面覆っていた雲。それをベールでそっと纏った、オーロラのような太陽光。
 神秘的で、少し畏怖した瞬間。
 私は――
 柔らかく微笑んだ。
「幸が見つけてくれた素敵な道だもんね。私、ゆっくり歩いて行くよ。
 ありがとう、幸」
 幸は――
 ゆっくりとはにかんだ。
「由紀ちゃん、大好きだよ」


 目を閉じると、あの時の静謐な空間がよみがえってくる。
 空っぽの手を握り締めると、そこに幸の手のぬくもりが残っているようだった。


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