ティーンエイジ・エール

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 荷物も何も持たないままだったことに気付いたのは、昇降口を抜けてからだった。激しく後悔する。これじゃ、帰れないじゃん。
 取りに戻ろうかと思った。けれど、その際にアイツと会ってしまうのではないかと考えると、気が滅入った。会いたくない。出来れば一生。
 どうしようもなく、結局私は体育館の入り口前にある段差に腰掛けて、時が過ぎるのを待つことにした。

 運動場には、部活動に励んでいる生徒たちが溢れかえっている。彼らをぼーっと眺めた。野球部にサッカー部にテニス部に……。誰もが汗を流しながら、柔らかい日差しの下で笑っている。

 ふと思った。この人たちは、一体何が楽しくてあんなにはしゃいでいるのだろう? 何が面白くて、あんなに笑ったり動き回ったりしているのだろう?
 普段の授業の時は、自分勝手に暴れ回っているくせに。

 渦巻き始めた疑問が、段々と黒い感情となって、私の身体を満たしていった。同時に後頭部の辺りがむかむかしてくる。
 押さえようと必死に唇を噛んだら、鉄の味がじわりと口の中に広がっていく。無意識のうちに強く噛んでいたことに気づき、愕然とした。

 おかしい。普段なら、すぐに抑え込められるはずなのに……!

「ばかやろぉ……!」

 私はただ、この宛てもない気持ちを持て余しながら、体操座りしている膝小僧の間に、顔を埋めるしかなかった。


 ふいに、どこからか厳つい怒声が飛んできた。
 驚いて、声が飛んできた方向――恐らく体育館裏の方だ――へと視線を向けた。
 今度は、ばし、と重い音がする。思わず身をすくめた。その後も、おらおらとかこのヤロウとか叫ぶ罵声と、重苦しい音などが、絶えず私の耳になだれ込んでくる。

 動悸が一気に速まる。頭の中で、何かを告げる警鐘がけたたましく鳴り響いていく。
 それでも私は誘われるように、体育館裏へゆっくりと歩を進めていた。壁際から、こっそりと窺う。

 そこでは、複数の厳つい男子たちが輪になって、足をしきりに動かしていた。履いているスリッパの色からすると……三年の先輩たちだ。
 その輪の中心の地面に、男の子が一人横たわっているのが見えた。ひたすらに振り下ろされる攻撃を、ただ受け続けているその子。
 ふいに、地面に伏せていた男の子の顔が、きっと持ち上げられた。見覚えのあるその顔に、私はあっと叫び出しそうになり、慌てて口を塞いだ。
 五十嵐君、だった。

「なんだよ、健斗。言いたいことあるなら、言えばいいだろ! 前みたいによ!」

 一人の先輩が声を荒げると、五十嵐君の腹部を踏みつけた。がふ、と彼が喘ぐ。周りの先輩たちが馬鹿笑いする。今度は別の先輩が足を振り上げ、彼の背中を蹴りあげた。ぐは、と彼が身をよじる。先輩たちの更に甲高い笑い声が響いていく。そして今度もまた別の先輩が――。
 そんな行為の繰り返し。私は何も出来なかった。ただ震える手で口元を押さえたまま、固まるだけだった。

 しばらくして勢いが収まると、先輩たちは笑いながら退散していく。
 その内の一人が、餞別にと五十嵐君の顔を踏みつけ、一言吐き捨ててから去っていった。

「最近のお前、可愛くねぇなぁ。もっとよぉ、最初の頃みたいに生意気に抵抗してきたらどうだよ。つまんねぇ」

 一人残された五十嵐君は、地面に倒れたまま咳き込んでいた。やがてのっそりと上半身を起こすと、ぺっと口から血を吐いた。袖で口元を乱暴に拭うと、壁に手を当てて、ふらつきながらもなんとか立ち上がる。

 気が付けば、私は彼の目の前に立っていた。足元に視線を落としていた五十嵐君がそこで顔を上げて――私の姿を見るやいなや、その目が丸くなるのが分かった。

「あ……」

 しまった。なんで飛び出してしまったのだろう。……今更、後悔したって遅いけれど。
 あぁ、そのまま知らぬ振りして去っていけばよかったのに。――いつもみたいに。

 私たちはお互いに見つめあった。同じ背丈の五十嵐君が、私を警戒するように、ぎらぎらと鋭い視線をぶつけてくる。辺りの湿った空気が、びっとりと肌にまとわりついてくる。居心地が悪すぎた。

「その……。ご、ゴメン。さっきの、勝手に覗き見してて」地面へ視線を落として、私は謝った。「で、でも。先生にチクることはしないから。……それよか、身体、大丈夫? ひどく蹴られてたけど――」

 何の返事もない。ちらと彼を覗き見た。そこにはやっぱり、異常に光る瞳がある。けれどその奥底は、深い淵を覗き見るように、真っ黒だった。吸い込まれてしまいそうなほどのその黒に――それはなんだか祐子が宿していた闇に似ていて――、気を抜いてしまえば呑み込まれそうで、途端に喉の奥がきゅうと縮こまる。

 五十嵐君は、ふいに瞳を伏せたかと思ったら、地面に大きな唾を吐き捨てて、そのままくるりと私に背を向けた。そしてふらついた足取りで、歩き出そうとする。

「ちょ……!」

 慌てて呼び止めた私の声に、彼がぴたりと立ち止まる。顔だけをこちらへ向けてきた。
 先ほどよりも鋭利で、容赦なくこちらの心をえぐってくるような視線に、私は胸がつまった。

 その時だった。彼の瞳のずっと奥深くで、ちらりと何かが垣間見えた気がした。深海のように暗くて冷たいその奥で、モールス信号を発しているかのごとく、きらりきらりと小さく輝く何かがある。

 しばらく魅入ってしまった。彼から視線を逸らされた時に、ようやく我に返る。
 五十嵐君は再びよろりと歩き始めていた。壁を支えに、何度も崩れ落ちそうになりながら、それでも進んでいく。
 私は立ち尽くしたまま、その背中を見送ることしか出来なかった。

 彼の姿が見えなくなると、自然と足から力が抜け、ぺたりとその場に座り込んでしまった。

「……なん、だったんだろう……」

 本当に、なんだったんだろう、あれは。

 今まで、あんなような何かを――"光"を、見たことはなかった。
 あれは、そう、恐らく五十嵐君の意志そのものだったような気がする。
 とても強くて、揺るぎのない真っ直ぐな"光"。

 目の網膜には、未だにそれが強く焼き付いているかのようで、ちりちりと痛む。
 もしかしたら、五十嵐君の"光"が一点に集まって、私の網膜を焦がしていったのかもしれない。

 私はぎゅっと目をつぶった。そして誰かに祈るように、胸の前で両手を握りしめた。

 ――欲しい。
 あの、強く輝く"光"が。
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