ティーンエイジ・エール

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 学校での気だるい時間が、ようやく終わった。

 家の玄関を開けるやいなや、私は短い廊下を進み、リビングの中へと入っていった。隣のダイニングで、夕飯の準備をしているらしき母さんの後ろ姿が見える。けれど私は何も告げずに、その隣にある冷蔵庫の扉を開けた。
 音でようやく私の存在に気付いた母さんが、「あら、お帰りなさい」と声をかけてきた。私はやっぱり黙りこんだまま、顔も向けないままに、冷蔵庫から麦茶を取り出す。食器棚からマイコップを手に取り、そこに中身を注ぐと一気に口の中へと押し流した。

 冷たい麦茶で喉が潤む。味噌の香りが鼻をかすめる。リビングからは、夕方のニュースを告げるテレビキャスターの声が、淡々と聴こえてくる。

「ねぇ綾音。今日の夕ご飯、焼き肉でもいいかな?」
 母さんが話しかけてきた。「本当はお鍋にしようとしたんだけど、野菜がなかったのよぉ。冷蔵庫にあるもんだとばっかり勘違いしてて、お肉だけ大量に買ってきちゃったの。だから――」
「別にどーでもいいよ」

 空になったコップをかつんと洗い場に置き、私は言い放った。隣から小さく聞こえてきた、唾をごくりと呑みこむ音を完全に無視する。
 洗い場の隅に置かれた三角コーナーの生ごみを、これでもかと睨みつけた。

「ご、ごめんね、綾音。でもね、焼き肉さ、ホットプレートで焼きながら、皆で食べようと思うの。私とお父さんと、綾音の三人で。
 だからね、今日ぐらいは一緒に夕飯を」
「いらない」

 母さんに背を向けて、私は二階へと駆けだした。どたどたと階段を上り、乱暴に自室の扉を閉めて、手に持つ鞄をベットへぶん投げると、机の椅子にどかりと座り込んだ。
 背もたれに深く身体を預ける。一気に疲れが溢れだしてきて、身体が重い。

「……ばっかみたい」

 溜息と同時に声が出た。
 ホント、ばっかみたいだ。いつまでも甘えた態度ですりよってきて。こちらが迷惑していることに、気付いていないのか。


 高校受験に失敗し、滑り止めである今の高校へ入学した時から、私は母親のことが疎ましくて仕方がなくなった。

『良かったじゃない。高校には入れたんだから。例え評判悪いとこだとしても、綾音ならきっと上手くやっていけるわよ』

 きっかけは、合格発表の日、第一志望に落ちたことを電話で伝えた時に言われた、この言葉だった。
 その瞬間、頭の中の何かが切れた。今までずっと意識的に避けてきたけれど、ついに限界点を越えて、ぱちんと弾けたのだ。

 何を言っているんだ、この人は。
 受験前までは、「もしも万が一滑り止めの高校になったら、一生のお笑いネタになるわねぇ」なんておちゃらけていたくせに。

 私が目指してきた高校は、県内でもそれなりに偏差値が高いところだった。
 中学の私はそれなりに成績が良かったし、先生からも「ちょっと努力すれば余裕で入れるな」なんて太鼓判を押してもらっていた。
 だから第二志望を決める際、私はとりあえずあの高校を選び(家から距離が近いというだけの理由で)、私立も受けず(お金がもったいないと思ったから)、それでも余裕な気持ちで受験勉強に励んでいた。
 けれど、結果はこうだ。

 母さんからあの一言を告げられた時、私は思い切り反抗した。何が大丈夫なんだ、と。根拠もなくそんなことを簡単に言うな、と。
 恐らくこの時が、初めて母親に声を荒げた瞬間だった。

 それ以降、母さんのことを無視し続けている。声を聞くだけで虫唾が走る。怒鳴ったことも数知れず。とにかく嫌悪感だけが母親にびたりと張り付いている。たまらない。
 それと同じくらいに、今のこの状況が心苦しいのも、事実なのかもしれない。


 突如、ベットの上の鞄が震えだした。慌てて身体を起こし、鞄の中から携帯を取り出す。そのディスプレイに、

『着信あり:ゆうこりん』

 の表示を見て、一気に心が浮き立った。久しぶりに見る名前だ。
 通話ボタンを押して、「やっほー」と私が言う前に、相手の声が聴こえてきた。

「綾音、ひさぶり! ねぇ、今ヒマ? 一緒にだべらない?」

 高校からの友達である祐子の明るい声につい嬉しくなって、私はもちろん「良いよ!」と返す。いつもの居酒屋で待ってるよ、と祐子が告げると、通話は切れた。

 これは良いタイミングで誘いがきたぞ。
 今夜はいっちょ、裕子とはしゃいでストレス発散でもしようかな。

 すぐに着替えて、私はそのまま家を出ようと思った。だけど、玄関前でぴたりと立ち止ってしまう。ほんの少しの罪悪感が、足に絡まりつく。
 ……仕方ない。
 「外出してくる」と、どこへともなく声を掛けたのちに、私は夜の世界へと飛び出した。

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