「ほら見て。あそこ。織姫と彦星!」
東の夜空で輝く大きな星たちを指差しながら私が言うと、隣の享(とおる)もそちらを見上げて「お、ホントだ」と呟いた。
「アルタイルと、ベガ。そしてあれがはくちょう座で……えぇと、」
「デネブだろ?」
「そうそれ」
忘れるなよな、と享に突っ込まれて、私はてへへと照れ隠しに笑った。
夏の大三角形を、指でなぞってみる。
都市部に近くて明るいこんな街中でも力強く輝く夏の大三角形は、とても綺麗だった。
七夕の夜に。
二人で並んで橋の欄干にもたれかかっていると、湿気を含んだ生ぬるい風がびゅうびゅうと下から吹いてくる。制服のスカートが揺れるたび、私はそっと手で抑えた。
足元には、幅三キロはあるだろう巨大な川が、まるで天の川のように静かにゆったりと横たわっている。その上に架かっているこの橋は、築五十年以上経っているせいで、結構錆びついていた。車が一台通るたびにごおんごおんと小さく揺れる。
地平線の彼方では、人工的な光が衰えることなく溢れている。まだ仕事をしている人たちが大勢いるのだろう。こんなイベントの日――七夕の時ぐらい、皆が早く家に帰って電気を消して、綺麗な星空を見ながらゆっくりすればいいのに、なんて思った。
「そういやお前、家に帰ってないの?」私の制服を見ながら享が言った。私は首を横に振る。
「家には一旦帰ったよ。でも、待ちきれなくなっちゃって。制服のままで来ちゃった」
一日の授業が終わるとすぐに高校を飛び出し、家に着いて鞄を放り投げるやいなや、ここまで猛ダッシュ。『その時』が来るまで家で大人しく待つ余裕なんてなかった。
お母さんには何も告げずに出てきたから、きっと怒っているだろうな。腕時計をチラリと見れば、もう十時近くを差していた。
享と会ってからもう一時間が経過したのか、と、ちょっぴり驚いた。
「でも、晴れてよかったな」ほっとしたように享が言う。「雨や曇りだったら、こうやって一緒に星空を見られなかっただろうしな……」
「きっと神様のおかげだよ。天気の神様が私たちの為に晴れにしてくれたんだよ」
なんだよそれ、て呆れ交じりに言われたものだから、絶対そうなんだよ、と唇を尖らせて反論した。すぐに笑われてしまったけれど。
「昔から思ってたけど、潤って時々……いやしょっちゅう、意味不明なこと言うよな」
「昔から? しょっちゅう?」私は更に唇を尖らせた。「なにそれ」
「そういうこと。幼稚園時代からチンチクリン、てこと」
なんだとぉ、とムキになった私は彼の肩を叩こうとして腕を上げ――けれど途中でハッと気づいて静かに下ろした。
何も気づいていない享は、ははは、と無邪気な笑顔と共に言った。
「嘘だってば」
どきっ、と高鳴る胸の前で、ぎゅっ、と両手を握り締める。
『嘘だってば』。
冗談を放つ時に出る、お決まりの台詞で、享の癖。
なんだよ。あんただって昔から全然変わっていないじゃない。
そして、その言葉を言われるたびに恋に落ちる私も、全然変わっていない。悲しいくらいに、嬉しかった。
もう一度、夜空を見上げる。三つの大きく輝く星に問いかける。
ねぇ。織姫と彦星。
あなたたちも、無事に会えてる?
享が好きだ。
この想いに気が付いたのはいつだったのか、ハッキリとは覚えていないけれど、恐らく中学を入学してしばらく経ってからだろう。
幼稚園の時から、すぐ傍には享がいた。家が隣同士ということもあって、遊ぶ時は大概一緒だった。近所の人たちからもやんちゃな二人組として有名だったのは、今にして思えばとても恥ずかしいけれど。
だから私たちが並んでいることはごく自然なことだったし、中学に上がってから私が少し遠くのアパートへと引っ越した後も、待ち合わせをして二人で登校していたのも日常の一部だったんだ。待ち合わせ場所は、この大きな橋の入り口。
けれど、時の流れというものは、本当に残酷で切ないものだと知った。
今までは全然気にならなかった享の行動が、一々気になり始めたら最後、止まらなくなってしまった。
彼の口から放たれる言葉にくずぐったくなったり。逞しくなった彼の腕にどきりとしたり。彼の放つ匂いにとても安心したり。
ずっと一緒にいたい。ずっと隣にいたい。
これが恋なんだな。
それ以来、私の世界が変わったんだ。
「それにしてもあの時はマジでビビったよなぁ」
夜空を見上げながら、しばらく二人で他愛のない話をしていた時だった。享は頭を掻いた。
「あの時って?」
「だから」急に口ごもり始める享。視線を夜空に向け、へへ、と小さく笑った。「お前が突然告ってきた時」
「な、なんで急にそんなこと……っ!」
「ふっと思い出した」
慌てて周囲を見渡し、誰もいないことに安堵し、だけど猛烈に恥ずかしくなって火を吹く顔を手で覆った。鉄の錆びついた匂いがツンとした。
「まさか告られるとも思ってなかったけど。しかも登校前で、普通の月曜日だった、てのもまたビックリだよなぁ」
「いや……! だ、だって、気付いたら言っちゃってて……! というか、わ、私だってビビったんだからっ。
まさか、本当にオーケーもらえるだなんてこれっぽっちも思ってなかったし。断られると思ってたし……!」
一気に頭の中がぐちゃぐちゃになって、あぁもう、何も考えられなくなる。当時の恥ずかしすぎる話題を急に持ち出してくるだなんて、なんて卑怯なヤツっ!
それでも隣の意地悪さんは、イヒヒと小さく、けれど照れ臭そうに自分の頭をごしごしと掻く。
「冗談かとすっげぇ思った」
「ホント、途中で気が狂いそうになって、冗談にしようかと思ったし!」
「それはそれでショックだな」
「誰かさんはいつも冗談言ってるじゃんっ」
苦笑する享に頬を膨らませつつ、足元の大きな川を見下ろす。明りを反射して、きらきらと静かに流れる天の川。
その綺麗な輝きを見ていたら、段々と心が落ち着いてくるのを感じる。一つ二つと小さく深呼吸。夜の穏やかな空気を肺へと送り込む。
あれ。なんだか、これと同じような状況を以前にも体験したな、と気づいて思い出した。
私が告白した時と、同じだ。
目をそっと閉じてみる。あの時の状況が、景色が、想いが、じんわりと蘇ってくる。
「ずっとずっと……一緒にいたいと思ったの」
欄干を持つ両手に力がこもる。夜空を彩る星たちへそっと語りかけるように私は口を開いた。
「小さい頃から、ずっと一緒で。それがすごく当たり前に思えていたのに、ある日突然、それが当たり前じゃないんだってことに気が付いたの。
いつも傍にいてくれたはずなのに、もっともっと一緒にいたいって、欲張るようになっちゃって。我慢できなくなってた。
でもね。これ以上近づいてしまったら、きっと何かが壊れてしまうんじゃないかっていう恐怖もあったんだよ……」
あの時、「好きです」の言葉がぽろっと出てきたのは、本当に自分でも驚きだった。なんであのタイミングで出てきたのか、今でも不思議だ。
くっきりと覚えていることは、「ほら行くぞ!」と眩しい笑顔を湛えた享が背中を向けて走っていく姿に、きゅんと激しく切ない想いが込み上げてきたことだった。
激しい感情が、突然胸に湧いてくる。隣を見上げれば、目をまん丸にさせた後に優しい微笑みを浮かべる彼が、隣にいる。
あれ以来、何も変わらない姿。いつも隣で見守っていてくれた、澄んだ瞳。
そして――もう遠い存在になってしまった、私の一番好きな人。
激しい衝動がついには全身を突き抜ける。涙で視界がぐらぐらと揺れ出す。私は耐えきれずに享へと手を伸ばす。
捉えたのは、空気だけだった。
「俺も。
潤と、ずっと一緒にいたかった」
さっきまではなんともなかった享の身体に、光が差し込み始める。はっきりしていた身体の輪郭が、ぼんやりとかすれていく。ありがとな、と言う彼の声が小さくなる。
あぁ。消えていく。消えてしまう。
やめて。お願い。また、遠くへ行かないで……っ!
「ごめん、ごめん。享、ごめん……!
二年前の日、私がちゃんと、傘、入れてあげていれば……っ」
あの時からずっと心に抱えていて、だけどわざと見ないようにしていた大きくて黒い傷が、ぱっくりと口を開けて私に襲いかかってくる。
両手で顔を覆い、今までの苦しい思いを吐き出すように、私は泣き叫ぶしかなかった。
二年前の今日。中学三年生。待ち合わせ場所。小雨の中、傘を持ってこなかった享。激しくなる雨。傘に入れてあげようとしたら、走れば平気だって、と子供みたいにはしゃぐ享に呆れる私。じゃあ早くいけばぁ、と意地悪で放った私の言葉に、んじゃお先に、と本当に行ってしまった享。
直後、享に迫る大きなダンプカー。
激しい音。振動。
川へと投げ出される、享の姿。
「……一年前、お前と会えたときにも言ったけどさ。潤のせいじゃないって」
自分の激しい嗚咽の中に、享のかすかな声が聞こえる。「あれは俺がした行動だし。お前は何も悪くない」
一年前と同じ台詞。今日と同じ、七夕の夜。享の一周忌。
私がここで茫然と佇んでいた時、――偶然なのか必然なのか――幽霊となった享と会えたんだ。
「でも、でも……!」言いかけた時、視界が突然白くなる。ハッとして顔を上げた。享の横顔がすぐ近くにある。彼が私を包みこんでくれてたんだと悟った。
「それよりも。また、お前に会えて、本当に良かった」
耳をそっとくすぐる彼のかすかな言葉が、心に温かく染み込んでくる。彼から体温なんてもう感じ取れないけれど、でも確かに私の身体は温もりで満たされていて、あぁ本当に享はここに居てくれていたんだと実感する。
このまま、ずっと、この時間が続いてくれれば良いのに――――。
「また、また……来年も、会える、よ、ね」
激しい嗚咽で声が出ない。息をするのも精一杯だった。死んでしまいそうだ。死んでしまいたい。享とずっと一緒にいたい。
享がそっと私から離れ、寂しそうな表情で夜空を見上げたのちに、ゆっくりと口を開いた。
「……分かんない。
もしかしたら……。会えないかも、しれない」
分かんない。その一言で頭の中が真っ暗になる。「なんで。どうして?」すぐ目の前に立っている、消えていきそうな享を掴もうとして掴めない。ただ生ぬるい空気だけを掠めていく。
鼓動がただただ早くなって胸を締め付ける。私は叫んだ。
「嫌だよ……っ! 年に一回だけでも、いいから……! 会えなきゃ、嫌だよ……! ねぇ、お願いだよ享……っ!」
「――嘘だってば」
ハッとして、私は顔を上げた。
意地悪だけど、優しい笑顔を湛えた享の表情が、そこにはあった。
「何があったって、来年も絶対に、ここへ来れる気がする。
だから、お前も絶対、ここに来いよ」
――あぁ。
お決まりの台詞で、彼の癖。
なんだよ。
やっぱりちっとも、変わってなんかいなかった。
「うん……!」
お互いに、またね、と小さく手を振りあった。
きらきらと小さな粒子と、夜空に輝く星たちだけが、残された。
夏の大三角形を、指でなぞってみる。
都市部に近くて明るいこんな街中でも力強く輝く夏の大三角形は、やっぱりとても、綺麗だった。
2013.07.15 公開
七夕、というキーワードから思いついたお話。幽霊ネタ好きですねぇ、私。(^^ゞ
当日に思いついたネタだから間に合わなかったけれど、旧暦では八月なので間に合ったハズっ!