僕らの小さな夏祭り。

3 地域のお祭りの磁力


「おぉぉ! もしかして、美夏かい?」

 背後から野太い声が飛んできた。
 驚いて振りかえると、顎鬚が濃いのが特徴的な中太りの男の人がにこやかに立っている。
 ――まさか。私は恐る恐る尋ねた。

「もしかして、ケンイチおじちゃん……?」
「おう、そうだとも!」

 がはは、と豪快におじちゃんは笑った。「いっやぁ、久しぶりだなぁ美夏ぁ!」
 実に数年ぶりに見る顔と声。目頭がじんと熱くなった。思わず立ち上がってしまう。「う、うん! ホント、久しぶりだねっ!」
「前々から美夏たちの顔が見えなくったもんだから、どーしちまったのかと思ったよぉ。にしても、大きくなったもんだなぁ」

 おじちゃんは、昔と変わらない力強い笑顔で言った。
 そしてどかどかと威勢よく近づいてきて、私の頭を鷲掴みにするように撫でてくれた。
 大きな手。圧倒されるほどの強い力。私はつい声を立てて笑ってしまった。
 あの頃と、ちっとも変わってないや。

「こらケンイチさん。可愛い女の子を誘惑する気ですか?」

 おじちゃんの背後から現れた、八割が白くなっている髪をふわりとカールさせているおばあさんがこちらを見、すぐに笑顔を作った。

「あらぁ。美夏ちゃんじゃない」
「シズばあちゃんだっ!」私は思わず指差して叫んでしまった。「シズばあちゃん、元気だった?」

 興奮して上ずった声になりながらも、私は慌てて駆け寄った。

「ええ。美夏ちゃんも、元気そうねぇ。
 昔より随分ベッピンさんになったんじゃなぁい?」

 ケンイチおじちゃんの隣に住むシズばあちゃんは、子供のような可愛らしい笑顔で言った。
 私はえへへ、と照れ笑いし、それからシズばあちゃんの両手をぎゅっと握った。しわくちゃだけど熱気を感じる手。昔、よくこうやって手を握り合っていた。シズばあちゃんの手は暖かい、なんて言いながら。
 シズばあちゃんはくすくす笑った。

「良かったわねぇ、ケンイチさん? 慕ってくれる子が、まだ居てくれたわよぉ」
「おいシズさん。その言い方はないんじゃないのかい?」

 おじちゃんが渋い顔になった。私が首を傾げると、シズばあちゃんは、おほほと高貴な笑い声を立てた後に教えてくれた。「相変わらず近所の子たちから、"熊みたい"って恐がられているのよ、この人」
 うわぁ可愛そうぅ、と私もからかうと、オレは熊じゃねぇぞぉ、と言いながらケンイチさんが両手を上げて吠えた。すると近くに居たらしい子供が「ぎゃー」と叫びながら走っていった。
「ありゃ」しまった、と間抜けた顔をするおじちゃんの顔がおかしくて、私はその妊婦みたいなお腹をばしばし叩きながら笑った。
 小学生の時みたいに。


 それから私は、ケンイチおじちゃんに連れられる形で、町内の人たちが集うテントへと足を運んだ。
 懐かしい面々がそのテント下に揃っているのを一目見た途端、生温かい波が胸一杯にせり上がってきた。
 私は一人ひとりに声を掛けていく。公園のすぐ傍に住む橋本老夫婦――よくお祭りの時は手作りのお萩をくれた――や、小さな駄菓子屋を営んでいた花子おばさん――もう閉店したという事実を初めて知って驚いた――や、小学校から付き合いのある友達の両親にまで。
 誰もが幼い時からお世話になった人たちばかりで、本当に久しぶりの対面だった。
 今までの空白を埋めるように、私は喋り続けた。

 とても不思議な気分だった。
 誰もが近所に住んでいるから、会おうと思えばすぐに会える距離だ。
 なのに、普段は道端ですれ違い軽く挨拶する程度で終わってしまう。
 でも、このお祭りの時だけは皆で顔を合わせては笑い合い、仲を深めている。

 地域のお祭りの磁力は凄いな、なんて私は思った。

 ※

 けれど、さすがにお喋りに夢中になりすぎた。
 役員の一人がこちらへ駆け寄ってきて、「佐藤さん、ジュース係お願いしますっ!」と呼んでくれるまで、私はお母さんから頼まれた役員の仕事をすっかり忘れていた。
 
 慌ててクーラーボックスの元まで戻ると、いつの間にか人の塊が出来ている。これは大変だ。
 私が不在の間に格闘していた別の役員の人(公園のすぐ傍に住む渡部さんの奥さんだ)に謝りながら、一緒にペットボトル受け渡し作業を始める。
 あれだけあったペットボトルは、もう半分くらいにまで減っていた。

 数分で収まるだろう、と思っていたけど甘かった。何故か人は増え続ける一方。ついには長い列まで出来てしまった。
 次々と突き出される券の処理が追いつかない。あたふたしながらも、傍に置かれていた掌型のデジタル時計をちらりと見た。六時半。夕飯を終えた人たちが集まるピークの時刻だった。
 やがてボックス内のペットボトルが全部尽きてしまう。それでも途切れることのない人の列。

「美夏ちゃん。後ろのテントから、ペットボトル持ってきてくれない? 段ボールに入ってるから」

 渡部さんに言われて、私は弾かれたように背後のテントへ向かった。

 辿りついて見渡せば、同じような段ボールが沢山詰まれている。
 ええ、と……どれを使えばいいんだろう?
 すると丁度、段ボールの傍に男の人の背中が見えた。
 役員用のTシャツとジーンズを着ているその人は、中屈みになって、目の前の小さな男の子と会話している。

「次からボクが太鼓たたく番なんだよー」
「へーそうか。お前、すっげぇ張り切ってたもんな」
「うん! めっちゃれんしゅうしたんだもん! 絶対きいてね!」
「わぁったわぁった。仕方ないから聞いてやるよ」
「やったー!」

 笑顔でぴょんぴょん跳ねた男の子は、「じゃあねー」と手を振りながら走っていく。残された男の人は、ふぅ、と息をつき、首に巻いたタオルで額を拭った。私は急いで彼に話しかけた。

「あの、すいません。町内会の人たちに配る用のペットボトルって、どれですか?」
「へ? ああ、それなら、」

 彼が振り向いた。視線が合う。
 その時だった。

 完全に、息が止まった。
 視線が彼の顔に固定されて動かなくなる。
 どくん、と一度だけ大きく跳ね上がった心臓が、そのまま停止してしまったかのようだった。
 目の前の彼も、私と同じように時が止まっている様子だった。
 ただ半開きの口から、「え」と小さく漏らすのが聞こえた。

 シャープな線を描く顔の輪郭。
 すらっと通った鼻筋に、少し垂れ下がった切れ目。
 耳に付けられたピアスと、鮮やかな金色に染め上げられた髪が眩しい。

 かき氷の時にふいに出てきた男の子の姿がまた脳裏に現れて、目の前の彼と重なっていく。
 大分違っていると思った。
 記憶の中の男の子は、頬がリンゴのようにふっくらしていて、瞳はもう少し柔らかみがあって、眉ももっと濃くてきりっとしていた。

 けれど、口の下にある大きなホクロが、彼であることを決定的に証明していた。

 間違いない。

 小川裕也君、だ。

『――えー、それでは、盆踊り再開したいと思いますー』
 スピーカーから流れる間の抜けた声と同時に、曲がかかった。
 続いて太鼓の音。

 どん、どん、どん。
 
 それは、私の心臓音だった。

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