自動販売機な、わたし

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 わたしは一目散に、あの自動販売機に向かって走った。理由なんてない。ただ一番最初に思いついた場所が、そこだっただけ。
 今にも破裂してしまいそうな心臓を抱えこむように、自販機の傍に蹲る。団子虫みたいに顔を埋めていたら、涙がじわりと溢れてきた。任せるがままに涙を出したら、次から次へと止まらなくなった。しゃっくりも壊れたように出てきて息が苦しくなる。わたしはそのまま子供みたいに声をあげて泣いた。

 最低だ。
 わたし、最低なこと、やっちゃった。


 ぶーん、と低く掠れたような機械音がして、わたしは顔を上げた。傍に寄り添うように、お馴染のおじいちゃん自販機が真っ直ぐに立っている。
 傷だらけで古びた自販機。ただ立つことしか出来ない自販機。そして、買いに来てくれる人を待っているだけの、寂しい自販機。
 そうか、とわたしは、その時になって気が付いた。

 この自販機は、わたしと同じなのかもしれない。

 自分から動くことはしない。ただ待っているだけ。動く時は、誰かの指示があった時だけ。つまり、ただの受け身の存在。
 わたしは自販機に両手を当てて、頬をピッタリとくっ付けてみる。固くてざらざらした感触。夏に近づくほどに強さを増した太陽の熱の為か、わずかなぬくもりも感じた。耳を澄ませば、じーん、と中で機械が絶え間なく動いている音が聞こえてくる。

 ぐわん、ぐわん、ぶぃーん、じーん。

 それは紛れもなく、このおじいちゃん自販機の、鼓動だった。
 わたしは涙を流しながら、じっとその音に身を委ねた。

 ※

 誰かに肩を揺さぶられるのを感じた。そこで自分が眠っていたことに気付き、わたしは驚いて目を開いた。身体全体が黒い影に覆われている。咄嗟に顔を上げた。

「ビックリしたぁ……。たまたまこっち通りかかったら、倒れてたから。一瞬、死んでるのかと思った」

 目の前に立っている人物の顔を見て、わたしは一瞬息が止まった。あまりの驚きで、心臓がついに爆発してしまうかと思った。金縛りにあったように身体が言うことを聞かなくなって、けれど口だけはぱくぱくと動かしていたら、その人が――稲田君が笑った。「面白いな、お前」
 次に、かぁぁ、と顔が灼熱のマグマみたいになって、わたしは両手でさっと覆って顔を伏せた。

 なんで、どうして、稲田君がここにいるんだろう。
 よりによって、今、一番会いたくない時に。

 しばらく顔を伏せてじっとしていたら、がらんと缶が落ちる音がした。親しみのある聞きなれた音。自販機と身体をピタリとくっつけているから、その振動も大きく伝わってきた。
 もういちど、がらん、と音がしたと思ったら、「ほらよ」と稲田君の声も聞こえてきた。指の隙間からそっと窺ってみると、ココアの缶が見えた。

「オレの奢りで良いよ。
 なんか……その、顔ぐちゃぐちゃで、辛そう、だったからさ」

 更に頬の熱が上がってきて、ぎゅっと口を結んだ。稲田君に、モロに見られてしまっただなんて。
 すごく恥ずかしかった。情けなかった。どこかに穴があったら、そのまま埋もれて死んでしまいたかった。
 だけど。目の前に掲げられた稲田君の優しさが、切なくなるほどに、嬉しかった。
 わたしは顔を伏せたまま、稲田君の手からそっとココアを受け取った。
 

 わたしたちはしばらく、自販機を挟むようにして座り込みながら、互いに飲み物を少しずつ飲んだ。
 稲田君の方をそっと盗み見ると、彼はコーヒーをちびちびと飲んでいた。大人なんだな、稲田君は。未だに子供みたいなわたしとは、全然違う。そう思って目を伏せた時だった。

「確か、菜純の友達の、溝口だよな」

 ばくん、と心臓が裏返るような衝動を感じつつも、わたしは小さく頷いた。
 『菜純の友達』。
 なすみんが主体のその言い方は、やっぱり傷ついてしまう。わたしは奥歯を噛みしめた後に言った。「去年も、同じクラス、だったんだよ」
 すると稲田君は、「あ、そうだっけ」なんて、ぼんやりとした声で返してきた。

 ――やっぱり、稲田君にとってわたしはその程度だったんだ。幼い頃から一緒だったなすみんに届かない、どうでもいい存在。馬鹿みたいだ。そんなこととっくに分かり切っていた筈でしょう、わたし。

 ココアの缶を地面に置いてわたしは膝をきつく抱えた。急に惨めな気分になって、そのまま走って逃げてしまいたい、と足をもじもじさせている時に、また声が聞こえてくる。

「そういや、去年一緒のクラスだったな。三学期に隣の席に座ってたの、溝口だったよな」
 ハッとして稲田君を見た。彼はわたしを見て、少し不思議そうに首を傾げた。「あれ、違った……?」
「う、ううん、そう、そうだよっ」

 わたしは慌てて頷いた。二回も三回もぶんぶんと勢いよく縦に振ったら、髪が派手に舞い上がった。稲田君が笑った。

「やっぱ面白いな、溝口って」

 わたしは何も言えず、気付けばそっぽを向いてしまった。
 しばらくしてから稲田君は立ち上がり、缶コーヒーを一気に喉に流し込む。けれどその表情はとても苦そうで、「げぇ」と舌を出しながら彼は言った。

「やっぱ駄目だコーヒー。苦い」
「え」驚いたわたしはつい訊ねていた。「稲田君、コーヒー飲めるから、買ったんじゃないの」
 頭をぽりぽりと掻く稲田君は、照れ臭そうだ。「飲めるように努力してるんだけど、やっぱ駄目だった。オレ、実はめっちゃ甘いものが好きなんだ。でもなんか格好悪いかなと思って」

 あはは、と頬をほんのり染める稲田君。何だ、それ。気付けばわたしは小さく吹きだしていた。笑うなよな、と稲田君は小さく口を尖らせた。そしてその空になった缶を、ゴミ箱へ放り投げた。ナイスシュート、とガッツポーズを決める稲田君がまた可愛らしくて、小さな笑い声を上げてしまった。
 じんわりと、視界が涙に揺れた。


「この自販機、なんか、良いよな」

 ふいに、稲田君が静かに話しかけてきた。わたしは目を擦ってから彼を見上げた。
 穏やかで優しい表情をした稲田君は、自販機にそっと手を当てていた。

「古びてて汚ねぇし、おまけにこんな場所にあるから、もう壊れているように見えるけど。でも、お金入れたらちゃんと動いてくれるから、すごいよなぁ」

 ちゃんと動いている。頑張っている。そうだね、とわたしは小さく頷いた。

「それに、いつも変わらずにここにあるから、なんつーの、安心感、みたいなのあるよな。……なんて、オレ、あんま利用したことないんだけど」

 安心感。いつもここに立っていてくれている。
 うん、そうだよね、とわたしは大きく頷いた。じんわりと、胸の中が温かくなっていく気がした。稲田君の言葉が、心の隅々まで染みわたっていく。きゅんと胸が高鳴った。

 目を閉じた。大きく深呼吸をしたら、すっかり夏の香ばしい匂いがした。本当に、時間が経つのはあっという間だ。
 二三回繰り返した後に、わたしはゆっくりと立ち上がる。顔も上げて、空を視界いっぱいに映し出す。切れ切れの綿雲が、澄み切った青空の中をのんびりと渡っている。
 不思議と、胸の内に暖かなものが流れ込んでいくのを感じた。

 もう一度空気を肺に吸い込んで数秒間溜めこんだ後、一気に吐き出すと同時に、わたしは口にした。

「なすみん、すごく気にしてるよ。稲田君のこと」

 え、と稲田君が小さく声を漏らすのが聞こえてきた。わたしはじっと空だけを見つめ続ける。恐らく今の彼の顔には、あの時昇降口で見かけたような、複雑そうな表情が浮かんでいるんだろうなと思った。
 今度は瞳を閉じながら、言葉を紡いていく。

「小学生の時のことね、ずっと、引きずってるみたい。なすみんはずっと前から稲田君に謝ろうとしていたんだけど、言えなかったんだって。
 でもね。きっとなすみんは、近いうちに稲田君に謝ってくるよ。だって本人がその気だったから。
 だからね、稲田君。お願い。なすみんのこと、許してあげて。そして、昔みたいに仲良くなってあげて」

 不思議と心の中は穏やかだった。涙も溢れてこない。多分、さっき思う存分出したからだ。それに傍には、おじいちゃん自販機が見守ってくれている。
 稲田君からはしばらく返事がなかった。ぬるま湯のような風がわたしたちをそっと撫でていく。その内、鞄を持ち上げるような音がした。そこでようやくわたしは視線を下ろした。
 彼は、今までわたしが見た中で、一番素敵な笑顔を浮かべていた。

「ありがとう、溝口」

 うん、とわたしは自然な笑顔で頷くことが出来たのが、何よりも嬉しかった。

 そして去っていく稲田君の背中を見送りながら、わたしはポケットの携帯を取り出した。
 まずは、なすみんに謝ろう。そして次に、あの背中をぽんと押してあげよう。
 大丈夫、きっと上手くいくよ、て。

 ※

 なすみんと稲田君が付き合いはじめたのは、夏休みに入ってから一週間ほど経った時だった。

 電話越しに聞こえてくる嬉しそうななすみんの報告を、わたしは「良かったじゃん!」なんて明るく返すことが出来た。なすみんは今までの陰を全て吹っ飛ばしたかのように、よく笑っていた。そして何度も、ありがとう圭ちゃん、圭ちゃんが背中押してくれたからだよ、とお礼を口にした。そのたびにわたしは、じゃあ今度百円ジュース奢ってよ、と返す。なんだよそれー。なすみんがまた笑ってくれた。

 けれど、二人が仲良くデートやら話しやらしている場面を想像すると、やっぱり胸がチクリと痛んでしまう。時には涙がにじむこともある。
 それでもわたしは、そんな針をそっと胸の内に大切に仕舞いながら、受験勉強に勤しむことにした。

 今年の夏休みは大変だ。お母さんに頼みこんで塾に行かせてもらったは良いものの、想像していたよりも追いつけなくて、やることが目一杯なのだから。
 だけど今なら、きちんと勉強に身を入れることが出来る。息詰まるたびに、わたしは勉強机の壁に貼り付けた南高校の写真を見上げた。夏休み前に寺田先生から貰った、南高校のパンフレット写真。わたしが、もっと南高校について知りたいんです、と主張したら、先生は笑顔でこれをくれたのだ。
 

 夏休みに入った今でも、なすみんと二人であの自販機へと息抜きがてらに立ちよった。時には、一人で寄る時もあった。

 そしてあの錆びついた投入口に百円硬貨を入れ、わたしはいつものように、あの冷たいココアを買っていくのだ。

 <了>
 


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