自動販売機な、わたし

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「これはちょっと、厳しいかもしれませんね」

 担任の寺田先生はそう言うと、少し寂しい頭をぽりぽりと掻いた。そして、机の上に置いてあるわたしの進路希望調査票に書かれた第一志望欄を、ペンでなぞっていく。
 『第一志望:杉内南高校』

「でも先生、無理ではないのでしょう?」

 わたしの隣に座るお母さんが、慌てて言った。その大きな声は、わたしたち三人しかいない教室によく響いていく。
 教室の真ん中で向き合うように座っている寺田先生は、わたしの成績表を捲りながら小さなため息を吐いた。

「まぁ、無理ではないと思いますよ。ただ私が気になるのは、この一学期の成績なのです」

 わたしの前に、開かれた成績表が置かれる。一学期の内心点と、中間と期末の点数と順位がいやでも目につく。それは見事なほどに悲惨な数字が並んでいて、自分でも目を覆いたくなった。
 「3」ばかりがひしめき、「2」の姿も見せている内申。中学に入ってから初めて見る、三桁の順位。

「受験では、二学期の内申点が影響してきます。ですがその二学期の点数は、この一学期が響いてきますからね。二学期でもうちょっと必死にならないと、少し辛いかな、と。
 それに、勉強面も不安があるかな。二年の時と比べると、すごくがた落ちなんだけど……。溝口さん、何かあったの?」

 寺田先生の優しい言葉にわたしは何も答えることが出来ず、ただ俯いた。替わりに隣のお母さんが口を開く。

「私も何度か訊ねたんですけどね。この子が言うには、一学期で相当浮かれていたんだそうです。これからの夏休みで挽回する、って言っていましたけど」

 確かにわたしは、成績表を見て顔を真っ赤にしたお母さんに、そんな言い訳をしていた気もする。ごめん、夏休みの間に必死に勉強するから、と、何度も何度も頭を下げながら謝った。
 だけど――。
 ぎゅ、と、スカートの上の両手を握りしめた。

 何故わたしは、そこまで必死になって、勉強しなければならないんだろうか。

「一学期はまぁ残念な結果になっちゃいましたけど。でも、本人も頑張るって言ってますし。大丈夫ですよね、先生?」

 お母さんが言った。何かを期待するような声だった。それはわたしの胃を異様に揺さぶってきて、途端に気持ち悪くなる。
 寺田先生はしばらく何も答えなかったけれど、ふいに「ねぇ溝口さん」と声を掛けてきた。顔を上げると、先生は柔和な笑顔を浮かべていた。

「キミは、本当に南高校に行きたいと思っているの?」

 ぎゅ、と喉の奥が縮こまった。わたしは黙り込む。
 どうしよう。何も思いつかなかったので、とりあえず書いておいたんです、なんてとてもじゃないけど言えない。隣から注がれる鋭い視線が、恐かった。
 返答に困っていたら、「当たり前じゃないですか」とお母さんが言った。

「だって南高校ならここから近いですし、それに名もある進学校で、伝統もあって評価も高い高校だから――」
「すみません、お母さん。私は今、溝口さん本人に訊ねているところですので」

 そう告げた寺田先生の声は柔らかだったけれど、底に凄みを感じさせた。お母さんもそれを察知したのか、口を噤む。
 すみませんね、と頭を下げてから、もう一度寺田先生はわたしを見て言った。

「どうなのかな、溝口さん。キミは、本当にここに行きたいと思ってる?」

 声が出なかった。言葉が何も浮かんでこない。イエスともノーとも言えず、わたしはただその中間ラインをうろうろと彷徨うことしか出来ず、それがすごく歯痒かった。
 しばらく目を伏せていたら、わたしの頭にぽんと何かが乗った。温かくて柔らかい。寺田先生の手だった。

「大事な選択だからね、よく考えてみると良いよ。ただなんとなくな気持ちだと、こういう風に成績にも響いてくるし、何より辛いからね。
 お母さんとも、もう一度、よく話しあってごらんなさい。もちろん、僕にも相談してね」

 はい、とようやく出せた声は、教室の真ん中で小さく萎んでいった。そうして、わたしの三者面談は終わった。
 校舎を出たところで、ずっと黙りこんでいたお母さんが口を開いた。

「あんた、南高校行きたくなかったわけ?」
「行きたくない、てわけじゃ、ないんだけど……」

 見上げれば、お母さんはとても不機嫌そうな顔つきになっていて、わたしはびくりと肩を強張らせる。

「じゃあどうするの。別の高校にするの? 南よりレベルが低い、東高校? それとも何、私立とか言うの?」

 再び何も言えず、垂れ下がった両手でスカートの裾をきつく握りしめる。頭上から、はぁ、と大きなため息が漏れるのが聞こえた。

「もう、はっきりしない子ね。自分のことでしょ、しっかりしなさい」

 その言葉が鉄の重石となって、わたしの心にがつんと落とされた。そして地面に打ちつけられた釘みたいに、わたしはその場に立ち尽くす。
 ――はっきりしない子。自分のことも決められない子。
 分かっている。そんなこと、自分でも嫌なぐらい分かっている。
 悩んでみても、最後には人の指示に従うだけしかない、意気地なしな人間だってことくらい。
 なんとかしなきゃと思ってる。ずっとずっと思っている。だけど思うだけで、わたしは結局、自分からは動けずにいるんだ。
 

 ふいに、わたしを呼び掛ける声がした。目の前になすみんがいた。どうしたの圭ちゃん、と問いかけてくる。辺りを見渡せば、お母さんの姿がなかった。そういえばさっき、「先に帰るからね」と言っていたような気もする。

 なすみんは張り詰めた表情をしていた。けれどその張り詰め方は、いつもと違う。頬と唇が引き攣ってはいるものの、けれど瞳には、何かを強く決心したかのような鋭いものがあった。途端、わたしの背中にぞくっと戦慄が走った。嫌な予感が体中を駆け巡っていく。
 そんなわたしの様子なんてお構いなしに、なすみんはわたしを体育館の裏口へと誘った。辺りに人気がないことを確認したのちに、なすみんがゆっくりと口を開いていく。

「……圭ちゃん。私、決めた。やっぱり、悠太に謝ろうと思う」

 頭の中が、一瞬にして、空っぽになった。

 ――ユウタニアヤマロウトオモウ。

 そんな単語の羅列だけが、脳みそをがんがんと叩いてくる。

「ここ最近、ずっと考えてたんだ。私はこのまま、悠太を無視し続けたまま卒業しても良いのかなって。
 多分もう圭ちゃんは気付いてると思うけど、私、同じクラスになってからずっとあいつのことばっかり気にしてるんだよ。ホント、自分でも嫌になっちゃうくらい。最悪、夢の中にも出てくるようになっちゃったんだよ。
 それで……ここ一週間くらいずっと悩んだんだけど、決めた。こんなに悩みまくるくらいなら、いっそ勇気出して、謝ろうかなって」

 ここ一週間のなすみんの様子を思い出した。稲田君を見つめる真っ直ぐな瞳。
 その奥にゆらめている決心の炎が、潜んでいたような気も、する。

 なすみんの声が熱を帯びていくのと反対に、自分の心は冷え切っていくのを感じた。ねぇ圭ちゃん、となすみんが訊ねてきた。私、どうやって謝ればいいかな、なんて言葉が聞こえてくる。顔を伏せながら、ぎゅ、と口を一文字に結んだ。

 ――なすみんは、自分で考えて、自分で行動しようとしている。

 途端に視界がぐらぐらと揺れてきて、自分がもはや立っているのかどうかも分からなくなる。必死に足を踏ん張ろうとしても、上手く力が入らない。
 耳に入ってくるあらゆる音が煩わしくなって、耳を塞いだ。目もつぶった。何もかも塞ぎこんだ。今すぐ叫びだしたくなった。
 どうしたの圭ちゃん、と肩を掴んできたなすみんを、気付けば突き飛ばしていた。はっと我に返った時にはもう遅く、既に地面には、目を丸くさせて倒れているなすみんがいた。

 ――違う、違うんだよ、なすみん、わたし、こんなこと、したかったわけじゃ――。


 けれど結局言葉は出てこなくて、わたしはそのまま、なすみんを置いて走り出した。
 


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