「幼馴染なんだよ、あいつ」
通学路を走ること五分。なすみんは、既にオレンジジュースを片手に持ちながら、あの自動販売機の隣でちょこんと座っていた。わたしの姿を見るや否や、「ごめん」と謝ってから、そう言い放った。
――幼馴染。
「……そう、なんだ」
荒い呼吸と、雄牛のように暴れる心臓を必死に抑え込みながら、わたしもその隣へ座りこんだ。アスファルトの道路のごつごつ感が直にお尻に伝わってきて、少し痛い。
……幼馴染。
初めて知ったその事実が、途端に鎖となって、わたしの胃を締めつけてくる。
なすみんは一気にオレンジジュースを喉へ流し込むと、空になった缶を両手で挟んでころころと転がしながら、ゆっくりと口を開いた。
「圭ちゃんは、まだ知らないよね。あいつ――悠太とは、家が近所同士でさ。小学生の頃は、よく一緒になって遊んでたんだ」
『悠太』。なすみんが、こともなげにそう言った。
親しみが多分に含まれている呼び方が、更に鎖の力を強めていって、胃がきりきりと悲鳴を上げはじめる。
「じゃあ、なんで、あんな、ギクシャクしていたの」
なんでもない風に訊ねるつもりだった。けれどわたしの声は、悲しいほどに掠れていた。なすみんは、真っ直ぐに前を見つめながら答えた。
「……喧嘩した」
「え?」
「いや、違う。喧嘩、じゃないけど。うん、なんていうのかな」
重いため息を漏らしたなすみんは、ふいに缶を転がすのをピタリと止め、それをじっと見つめたまま囁くように言った。
「小学校六年生の時、なんだ。私、国語の教科書忘れちゃって。それで、別のクラスにいた悠太に借りようとした時の話、なんだけどね。あ、その時はまだ、互いに仲良かったていうか、普通に楽しく話せる仲だったんだけど。
そこで、私が大声で呼びかけたのが、駄目だったんだろうね。周囲にいた悠太のクラスメイトたちが、急に盛り上がっちゃって。ヒューヒュー熱いねー、みたいな感じで。もうホント、二人して焦ったよ」
わたしは地面を見つめた。ごつごつしたその灰色のコンクリートの上に、映像がふいに浮かんでくるようだった。
幼いころの、なすみんと稲田君の姿。二人は、野次を飛ばすクラスメイトたちの輪の中心で、必死に否定していたのかもしれない。稲田君もなすみんも、同じように顔を真っ赤にさせて。
相槌することもなく、わたしはじっとその声を耳に流し込んだ。
「けど、更に周囲は盛り上がっていく一方でさ。『おめでとう』なんて言ってくる奴とか、勝手に私の背中叩いて盛り上がる奴もいて、もうホント、私、恥ずかしさで堪えられなくなって。
だから、叫んだの。『悠太とは何もないんだからいい加減にして!』って。足を、思い切りドンって踏みつけながら。
そしたらさ、踏んじゃったんだよね。貸してくれた、悠太の教科書」
無惨にも踏まれてしまった稲田君の教科書が、目に浮かぶようだった。
なすみんの声が、どんどんとか細くなっていく。
わたしのお腹も、ぎゅう、と小さくなっていく。
「きっと、背中押された時に落としちゃったと思うんだけど。でも全然気付かなかったんだよね。それを私、豪快なほどに踏んづけちゃって。周囲も一瞬、『あ』って驚いてたよ」
周りが一瞬にしてしんと静まる光景を想像すると、いたたまれなくなった。
ふいになすみんが顔を上げ、大きく深呼吸をした。まるで当時の不穏な空気を吐き出しているかのように見えた。
「しばらくしてからさ……。悠太ね、怒鳴ったんだよ。『何するんだよ!』って。
私、今でも忘れられないの、その時の悠太の顔。
――すごく、すごく、恐かった」
ちらりと、なすみんの方を一瞥するつもりだった。なのにわたしはそのままなすみんの顔を――瞳を見つめたまま固まってしまう。
薄い涙を溜めたその瞳は、とても綺麗で、吸い込まれてしまいそうだった。
直感で思った。
この瞳は……恋する人の、瞳だった。
「それで私、なんかもう、訳わかんなくなって。そのまま走って逃げちゃった。それ以来から、ずっとこの調子、ていうわけ。
そりゃ――謝ろうと何度も何度も思った。でも、結局出来なかった。悠太の顔見るだけで、逃げちゃう私がいるの。それで、どんどん距離が離れていって……。
臆病だよね、私。だって、あの時のことを思い返す度に、苦しくて仕方がないのに」
耳を塞ぎたくなった。もうこれ以上、なすみんの気持ちを知りたくなんかなかった。
けれどそんな思いとは裏腹に、わたしはただじっと地面のコンクリートを見つめている。
ただ黙って耳を傾けることしか、出来なかった。
「本当はね、このままずっと、心の内に秘めておこうかな、なんて思ってたんだけど。まさか、最後の学年で悠太と同じクラスになるとは、思わなくて。
いっそのこと、あいつは同じクラスにいないということにして、圭ちゃんと二人楽しく過ごそうかと思ったんだけど……。
ごめん。無理っぽい」
しばらく二人で黙り込んだ。昨日の沈黙とは違う、黒くてどんよりとした空気に押しつぶされてしまいそうだった。
わたしが何もせずまごついていたら、なすみんがすっくと立ちあがった。手に持った空き缶を近くにあるゴミ箱へ放り投げると、ぱんぱんとスカートの後ろを手で払いながら、言った。
「そうだ。私、家の用事があったの、すっかり忘れてた。ごめん圭ちゃん。私、先に帰る」
「あ、」
引きとめようと伸ばした手も虚しく、なすみんは地面に置いた鞄をひったくるように取ると、さっと駆けだしてしまった。
慌てて立ち上がり、なすみん、とようやく叫んでみたけれど、なすみんは背を向けたまま手を振っただけで、すぐにその姿は視界から消えてしまった。
取り残されたわたしは、しばらく呆然とその場に立ちつくすしかなかった。時々、そよ風が力なくわたしを通り過ぎていく。
突然、ぶん、と鈍い機械音が鳴り響いたのでわたしは驚いた。見れば、そこにはおじいちゃん自販機がいる。相変わらず一人でぽけっと立っている、自販機。
何だか呼ばれたような気もして、わたしはそっと近づいた。その身体に、ゆっくりと触れてみる。ほんのりと春の熱を吸いこんでいるのが、指先から伝わってきた。
「……あなた、聞いてたんでしょ」
声に出してから、何言ってるんだろうわたし、と思った。馬鹿みたいだ。もちろん、返事なんてないけれど。
わたしは、自販機に寄りかかった。
「聞いていたんでしょ、自販機さん。
ねぇ……。わたし、どうすればいい……?」
額を自販機にピタリとくっつけて目を閉じたら、稲田君を見ていたなすみんの横顔を思い出した。
一瞬で氷点下に達してしまったかのような、強張った表情。けれどもその大きく見開かれた瞳は、何かを強く求めているかのような光があった。すごく大切なものを愛おしそうに見るような、そんな光。
それは稲田君の瞳にも灯っていたのを、わたしは確かに、見てしまった気がする。
急に鼻の奥がジンと痺れてきた。ぐっと堪えるために額を強く自販機に押し付けたら、振動が伝わってきた。ぐわんぐわんと唸るような、力強い鼓動。わしはずっとここにいるんじゃよ、と主張しているみたいでなんだか可笑しくなった。小さく鼻で笑ったら、目の奥がじんわりと熱くなった。
それからしばらく、わたしは自販機にもたれかかっていた。
翌日、学校で会ったなすみんとは、互いに「ごめんね」と言い合った後、普段と同じように、昨日のテレビの話題やら今日の授業のことやらで笑いあった。
だけどわたしは、心から笑うことが出来なかった。それはなすみんも同じなのか、笑顔に陰があった。
――違う。
もしかしたらなすみんは、このクラスになってからずっと、こんな笑顔だったのかもしれない。自分の恋だけに夢中になっていたわたしが、気付かなかっただけで。
時折、なすみんは誰かを探し求めるかのように小さく教室を見渡していた。そしてそのほとんどが、反対の廊下側の席にいる稲田君に向けられているのを、わたしは知っている。その瞳はとても悲しそうで、わたしは目にしてしまう度に胸がちくりと痛んだ。稲田君も同じだった。ふとした瞬間に、複雑な表情でこちらに視線を投げかけてくる時がある。
わたしは始業式の時に、彼と目が合った時を思い出した。……あぁ。今になって思えば、あれはわたしを見ていたんじゃない。わたしの前にいる、なすみんの席だったんじゃないの。
こんなの、誰が見たって、両想い確定だ。
二人の様子を見てても、ただ辛いだけだった。無視しようとも思った。いっそのこと、稲田君へのこの想いも切り捨てようかと思った。でも、駄目だった。目の前の二人が互いを気にするのと同じように、わたしも二人の動向が気になって気になって仕方がなかった。
わたしは何も出来ず、何も言えないまま、ただ見守るだけの日々がずっと続いていった。
勉強の中身なんてろくに頭の中に入らないまま、気が付けば、中間も期末も過ぎ去っていた。
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