ぱしん。
ぱしん。
夕陽に包まれつつある河原に、ボールとグローブがぶつかり合う乾いた音だけが、響いていく。
三秒間隔で轟く音の合間に、隣でゆったりと流れている川の音や、その上に架かる錆びれた橋を通るトラックの重厚な音だけが聞こえてきた。
ぱしん。
ぱしん。
川を挟んで数メートル先にある堤防や、傍に建つ赤い十字架マークが目立つ白い建物に、その音が幾重にも反射し、やがて余韻を残して消えていく。
「……お前、今年でいくつだ?」
投げ合いをしていた人物の一人――手入れされていない無精髭が顎を覆い、乏しい印象が強い四十代半ばの男性――が、ようやく口を開く。
と同時に、肩に力を入れて、三メートル先にいる相手へ向かい、ボールを投げた。
「さあ。何歳になったと思う?」
ぎこちないそのボールをすっぽりとグローブに収めながら、男性とキャッチボールをする相手が、静かに口を開いた。「当ててみて」
「え。……あの……いや、実は父さん……忘れた」
「ばぁか」
――ぱしん。
相手から帰ってきたボールを受け止めた後、男性は――父親は一呼吸置いてから、車いすの背にもたれかかった。
「えっと……、ああそうだ。去年高校入学したんだから……高校二年だから……十七か?」
「だいたい正解だけど、答えるのに時間かかったからマイナス十点」
「なんだよそのマイナス十点てのは」
苦笑する父親に、相手の人物――その父親の子は、少し厳しい口調で言った。
「細かいこと言えば、まだ十六。誕生日、まだ来てないしね」
「ああそういやぁそうだっけなぁ〜」
あははと苦笑いした後に、右腕を振り回してボールを放つ。
が、予期した軌道には乗らず、勢いを無くしたそれは中間地点であっけなく地面に落ち、転がり始めた。
「下手くそ」
「はは、悪い、悪い。人間、たまにはこういうミスはあるものだ」
そんな父親を一瞥し、相手はオーバーなため息をついた。
しょうがないな、と言って、転がったボールに向かって歩いていく。
「さっきの言葉、訂正してあげれば、『たまに』じゃなくて『しょっちゅう』じゃない?」
「んだってぇ? これでもなぁ、父さんは高校野球の全国大会にまで上りつめた最強の男なんだぞ!」
「妄想の中のステージにいつまでも固有している馬鹿でのろまな男、の間違いだよ、それ」
子はニヤリと容赦なく言った。
「おまっ……なんか今日はイジワルすぎないか? 久しぶりのキャッチボールだってのに」
父親は額に大粒の冷や汗を浮かべた。
それははるか頭上にある少し西に傾いた太陽光によって更に際立って、それを見た子は、ぷっと吹き出した。
「最強の男がものすごい汗かいてるし」
「あ、ああ。今日は……まさに絶好のサマー日和だからな」
あからさまに動揺している父親を楽しんだ後、すぐさま心配そうな視線を向けた。
「疲れたなら、もうやめようか?」とポツリと呟いて。
父はそれを聞き、しばらく目を大きく瞬かせた後に、ゆっくりと微笑んだ。
「いいや、大丈夫だ。最強の男はまだまだ元気だぞ。
それより裕紀、お前のほうが疲れているんじゃないか?」
「――ばぁか、まだまだ元気だし」
右手に持っていたボールをぐっと握り直して、その子は――裕紀は構える。
右足を一歩引くのと同時に右腕も引いた。肩に力を入れて、三メートル先に佇む父親をしっかり目で捕らえると、右腕を頭上に回し、ボールから手を離す。
それは真直ぐ低めに、迷いの欠片も見当たらないストレートな動きで父親のグローブの内へとスッポリおさまった。
おっとっと、と父親は車いすの上でよろめいた。
「どう? こっちのほうが、上手い」
勝ち誇った笑みで裕紀は言った。
父親は何も答えず、まいったな、と苦笑しながら遠くを見つめた。
親子の頭上では、数羽のカラスが凛とした鳴き声を発しながら夕刻を告げ、ほとんど茜色に染まった空に黒い点を作りながら、ゆっくりと通り過ぎる。
今まで暖かく、時に厳しく照らしつけてきた太陽は、いまやその役目も終えて今帰らんとばかりに、西の方へと歩を進める。
それは今、まさに白い建物の背後へと隠れようとしていた。
細い目でその光景を眺めていた父親は、一人思った。
なんで太陽はあんなにも、無慈悲に姿を消してしまうのだろう。時だけがせっせと行き過ぎてしまう。
そんな無情な時間の軌道に、私たちは乗って行くしかないのだ。その歩を遅らせることなど、誰もできやしない。
時間があればいいのに。
そうしたら、まだこの子の成長を、自分の目で見ることができた筈なのに。もっと一緒にいてやることが、できた筈なのに。
そう思うと途端に、焦燥感だけが父親の心を満たしていく。無理やり思考をシャットアウトさせた。
「なぁ」
「ん?」
彼がボールを持って物思いにふけている間、ずっと川を眺めていた裕紀は、すぐに反応して父を見つめた。
少し躊躇った後に、父親が一言、
「……ありがとな。
俺のわがままに付き合ってくれて」
裕紀の目が戸惑ったように右往左往するのが、三メートル先にいる彼にもはっきりと分かった。
やがて視線を下に向けて、「どういたしまして」と、小さく小さく呟いた。
父親はそれを見、自分の発言を少し後悔したのか苦い顔をした。が、すぐに言葉を繋げる。
「多分……、これで最後だろうな。お前とキャッチボールやるのは」
河原に落とされた二つの影のうち、すらりと縦に伸びた長い影が一瞬、ぐらりと揺れた。裕紀の影だ。
もう一つ、車いすに乗っている為に四角形に歪む父の影は、ただしんとして動かなかった。
さっきまで見せていた楽し気な雰囲気は、すでに裕紀からは消えていた。
心の片隅に追いやっていた物悲しさの残滓に押しつぶされるように、その首を項垂れた。
さわ、さわ、さわ。
河原の草が呼応するように、静かに揺れた。
二つの影も、さわ、さわ、と揺れる。
「……裕紀」
父親は堪えかねて、声を絞り出して呼ぶ。
裕紀は口を開かない。
父親も黙る。その唇は乾ききってがさついている。
――最後。
その言葉を口にした途端、父親自身にも何かいたたまれない恐怖が押し寄せてきていた。
もう自分では慣れたつもりでいたのだが、やはり言葉にしてしまうとそれを強く実感し、余計に恐怖が増してしまう。
父親は、両拳を握りしめる。
これは、紛れもない現実だ。現実から目を背けてしまっては、いけない。
医者の告白を受けた時からした覚悟。
もう、後戻りはできないのだ。
ボールを強く握りしめ、裕紀を見つめた。そして、ずっと心に溜めて来た言葉を、言い放つ。
「俺はな、もういってしまうかもしれないけど……。
母さん、よろしくな、裕紀」
やはり、返事は何も返ってこない。
それでも、父親は言葉を紡ぐのをやめたりしなかった。
「最後に、お前と久々とキャッチボールが出来てよかったよ、なぁ、裕紀」
「――んで?」
今度は、返ってきた。
だが、その声は頼りないほどに震えていた。
「なんでそんなこと……。
最初に言ったのはそっちじゃん。『癌なんかに負けはしない』って。なのに……、今更負け腰みたいなこと言われたって……」
最初は勢いづいていた声が、次第に小さくなっていき、やがて聞き取れない程小さくなって消えてしまった。完全に項垂れている為に、その表情を読み取ることは出来ない。
父親は、大きく深呼吸した。まるで空気に霧散した裕紀の言葉を、自身の体内に全て取り込もうとしているかのように。
『癌に負けはしない』。
あれは、自分の余命を聞かされる、随分前の自身の台詞だった。
余命、あと半月と知らなかった頃の、愚かな自分の台詞だったのだ。
完全に沈黙が支配した空間が出来上がる。交わされていた言葉も消え失せ、お互いに口を開かない。
父親も、これ以上は何も言えずに押し黙ってしまう。
――だが、このままじゃいけない。
父親として……この子の父親として、このまま情けない格好で別れるのは、いけないのではないか。
心の内から、そんなエネルギーの火があがる。そして、目の前で小さく震える子供の姿を見た。
彼のそんな決意は、心全体にぼうっと燃え広がる。
すっかりオレンジになった太陽にも背中を押されてか、彼の体内から熱い感情が次第に込み上げてくる。
「いくぞ!」
「え?」
その合図と共に、父親は身構えた。
ずっと手に握っていて、今や少し汗が染み付いたボールを片手に掲げ、自分の子供を真直ぐにとらえる。
その瞳に反応されて、子供もグローブを構える。少し伏せがちに真直ぐと父親を見つめる。
今まで見せたこともなかった真剣な光が自分に向けられていることに父親は気付き、更に力を込める。
――そして、投げた。
ボールは手の中で高く頭上に上げられた後、勢い付いて離れる。
まるで一つの光線のように、真直ぐ、狂いもなく相手の方へと駆けていく。
さっきまでの沈黙や空気を撃ち破り、ただ熱い熱意だけを相手にぶつけるように。
今までにないストレートの直球に、子供は思わず瞳を大きく開けた。
これが最後の、思いの全てだった。
ばしん。
裕紀は、しっかりと受け取った。
力強いボールに少し後ろによろけ、その反動で後ろに軽く結えられていた髪がほどけ、長い髪が、ぱさりと顔面にかかる。
ボールを受け取ったグローブを胸の前に止めたまま、髪を直す様子もなく、裕紀はそのままの姿勢で固まった。
口も開かずに、ピクリとも動かずに。
やがて数秒が流れた後に、一言、父親は、
「大きくなれよ……、裕紀」
「……うん。お父さん、大好きだよ」
長い髪が顔の前に垂れてよく顔は見えなかったが、だが確かに、父親は首肯した愛娘の頬に、一筋の涙が太陽に照らされてオレンジ色に光ったのを見た。
また、遠い遠い未来で、こんな茜色の空の下で……
一緒にキャッチボールできたら、いいな。
2009年頃脱稿。 2011年改稿。
背景描写等に気を使ってみました。雰囲気が出ていればいいのですが……(^^ゞ